目次へ  前ページへ  次ページへ


 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
    三 若狭の初期寺院
      太興寺廃寺
 太興寺廃寺は小浜市街地から東へ約五キロメートルの地点、国道二七号線沿いの太興寺集落に所在する。この東側山裾に鎮座する日枝神社の境内に、自然石の表面中央をうがった塔の心礎石と伝えられる手水石が安置されており、現状で長径二・一メートル、短径一・七六メートル、高さ〇・八メートルとかなり大きい(写真135)。心礎の柱座は大正十年(一九二一)以降に拡大されて手水石に利用されており、現在は楕円形となってかつての面影はない。しかし、幸いにも上田三平の記録に、直径五五・七センチメートル、深さ一〇・六センチメートルの柱座であったとされている(『福井県史蹟勝地調査報告』二)。明らかに塔心礎と認定できるものである。
 礎石はもともと小字「村廻り」にあったが、江戸時代の末期に神社境内地へ移されたという。この地域は国道二七号線の南側に接して位置し、周辺の田地よりやや微高地となる。寺院跡と確認されたのは、礎石の所在と、昭和三十七年ごろより始まった国道二七号線新設工事のとき、道路南側側溝部分から軒丸・軒平瓦が発見されたことによる。
写真134 太興寺廃寺付近

写真134 太興寺廃寺付近

写真135 太興寺廃寺の礎石

写真135 太興寺廃寺の礎石

 さらに、やや東側の瓦捨場と思われる場所の部分発掘で多くの資料を得たのである。これらから白鳳期に創建され、少なくとも奈良期までは寺院の存続していたことが明らかとなった。
 伝承では、この寺院跡「村廻り」には七堂伽藍があって、多くの僧が修行していたという。ただし、建武四年(一三三七)三月二十三日付「明通寺院主頼禅置文写」(明通寺文書『資料編』九)によると、「太興寺堂」と記されているが、条里復原の結果、その所在が鎌倉時代にはこれより西側の集落東市場地籍に位置したことになる(『資料編』一六下)。あるいは、所在地を変えた太興寺の存続があったことも考えられよう。太興寺廃寺の堂塔伽藍については未発掘のため不明だが、前述の塔心礎があり、また、心礎の置かれた神社前面の小川には礎石と思われる石材が石垣に使用されている。これら多くの石材から、塔のほか金堂・講堂などの建物も存在したと推測されよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ