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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    三 漢詩―酬唱文学―
      菅原道真の漢詩
 嶋田忠臣の娘を妻にした菅原道真は、政治家として著名であるが、平安朝有数の漢詩人でもある。貞観十六年民部少輔に任官し、その在任中に休暇をとって越前敦賀に旅行している。気比大社に参拝することが目的の一つであったらしいが、それ以外は明らかでない。道真三〇歳前後のことである。『菅家文草』一の「秋日山行二十韻」によれば、湖西を北上し、江北より若狭へ山越えの旅を行っている。
  行き行きて山尽きず、念々意無聊なり。
  暦を歩す三秋の暮、家を離る五日の朝。(後略)
若狭から海路敦賀に赴き、そこで作った「海上月夜」と題する詩は、敦賀付近の秋景を描く絶唱である。   秋風海上蘆花に宿る。況や復蕭々として客望なるをや。
  語笑心に期し声は波に閙ぐ。詩篇口号んで指もて沙に書く。
  行遅くして、浅草潮痕に没す。坐すること久しく深更月影斜なり。
  若し放に往来して勝境を憐れめば、越州買ふを得ん一儒家を。
 なお道真には、「越州巨刺史に送る詩」がある。「巨刺史」とは、天慶八年(八八四)越前守に任ぜられた巨勢文雄であろう(巨勢文雄はすでに従四位下行右中弁兼大学頭の地位にあって、明らかに左遷であった)。このとき道真は仁和二年(八八六)讃岐守に任ぜられ、南海道に赴いていた。道真四二歳のことである。
  北山南海皇城を隔つ。煙水蒙篭夢裏の情。
  時節暗くして流涙の気に逢ふ。州名自づから断腸の声あり。
  道遠きにより孤立すと称するなかれ。人に知られて五更に会するを嫌ふ。
  若し神をして交同面拝せしめば、辞せず夜々寒行を冒すを。
 寛平六年十二月、渤海使として再び来航した裴と再会し、旧交を温めながら格調高 い詩文を交わした。
  別来二六寒膠を折り、今夕温顔感あに抛たんや。
  時節猶新なり霜後の性。筌を忘れて仍旧し水中の交。
  恩光恨むなかれ初に褐なきを。聖化古の有巣に逢ふが如し。
  相勧む故人何の外事ぞ。只月を看て詠じ風嘲を望まん。
 延喜八年来航した渤海使裴は裴の子である。道真の子、淳茂らが応接した。延喜十九年再来日したが、若狭丹生浦(美浜町)に接岸しつつも上陸できず、日本側が誘導して敦賀の松原に着岸させた。このとき越前掾の維明(氏姓不詳)が接待にあたったが、詩文などは残っていない。渤海国は九二六年に滅亡し、これが渤海国として最後の使節となった。
 



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