実は朱仁聡の来航は今回が初めてではなく、『扶桑略記』や『日本紀略』によれば、永延元年(九八七)十月二十六日に来航しており、翌年には羊を朝廷に献上している(『江記』寛治七年十月二十一日条)。ところで、『続本朝往生伝』(寳玲文庫旧蔵宮内庁書陵部本)沙門寛印には、
源信僧都、宋人朱仁聡に見えんが為に、学徒を引きて越前国敦賀津に向かえり。仁
聡 、一帳の画像を出して曰く「これは婆那婆演底守夜神なり。渡海の恐れを資けん
が為に、我等の帰するところなり」といえり。
とあり(写真114)、また、『元亨釈書』五―慧解四には、
釈寛印、楞厳院源信に事え、学業早成なり。時に、宋人朱仁聡、越の敦賀津に在り。
信(源信)、聡(朱仁聡)に見えんと欲す。印(寛印)を拉えて往く。仁聡、出でて之に
接す。壁の間に画像有り。聡、指して曰く「是れ婆那婆演底守夜神なり 。渡海の厄
いを資けんが為に帰する所なり。師、此の神を知らんや」と。信、華厳経中の善財讃
嘆偈を憶いて、筆を以って像の上に題して曰く「女の清浄の身を見、相好みて世間を
超ゆ」と。印を呼びて曰く「子、次の句を書け」と。印、筆を把りて写して曰く「文殊師利
の如し。また、宝山王の如し」と。仁聡、之を見て、感嗟して曰く「大蔵は皆二師の腸
胃なり」と。乃ち二椅を設けて之を延ぶ。
とある。以上のような寛印の伝記から、『往生要集』の著者として知られる源信僧都が、このころ弟子の寛印とともに、宋人朱仁聡と越前国敦賀津で会っていることが知られる。また『源信僧都伝』によれば、実はこれより以前の永延年間初めごろ、源信は西海道を托鉢中に、朱仁聡と同船の唐僧で杭州銭塘西湖水心寺の僧である斉隠と会って、彼の帰国の際に『往生要集』を贈っている。おそらく源信は、その時すでに朱仁聡に会っていたと思われ、今回、彼が再来日したことを知り敦賀津に出かけたものと推測される。
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写真114 『続本朝往生伝』
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