江沼郡幡生荘には「荘司」という呼称がみえ(寺三七)、一見のちの荘園の荘官のような感じを受けるが、そこにみえる僧漸敬・行 は、一日を隔てた別の文書で、坂井郡溝江荘の佃使としてみえ(寺三八)、距離を隔てた別の荘園をかけもちで管理する僧であった。それらの文書の書出しにみえるように、「荘(所)使」が彼らの実態であった。同様の者に、坂井郡子見荘の溝の開削計画書を提出している僧集福・花凰がいる(寺三九)。
ところで、このような田使・荘使を時期順にみてみると、天平宝字期までは俗官人、天平神護期には僧侶というように明確に分かれる。俗官人についていえば、越前国へ遣わされた官人についての記述が造東大寺司の勤務評定関係の文書にみえ(寺一)、そのような使に対する支給物を記した史料が造東大寺司の写経所の文書に残っていることから(文五六・五九・八四)、造東大寺司から派遣されたことは確実である。それに対して、僧侶は東大寺の三綱から派遣されたもので、荘園の現地経営に寺院が関与する度合いが時期が下るとともに増していったことがわかる。その画期としては一応天平宝字末年が考えられるが(岸俊男『日本古代政治史研究』)、あるいはもう少しさかのぼるかもしれない。 |