目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      渤海の建国
 渤海は、靺鞨人といわれる大祚栄を中心に、高句麗の滅亡後、遼東地方に強制移住させられていたその遺民が契丹族の反乱に乗じて東走し、現在の中国吉林省を中心に自立して、六九八年に震国王と称したことに始まる。七一三年、大祚栄が唐から渤海郡王に封じられ、渤海国(〜九二六)と号するようになる。その版図は、北はロシア連邦共和国の沿海州および中国黒竜江省・吉林省、東は朝鮮民主主義人民共和国の北部にわたり、唐から「海東の盛国」(『新唐書』渤海伝)とよばれた大国であった。東北アジアの歴史からみた渤海国の性格については解釈が分かれるところで、渤海は高句麗の継承国であり、朝鮮半島は新羅に統一されていたのではなく、新羅と渤海とに南北に分かれていたと考える説、渤海を中国の一地方政権とみなす説、ツングース系の部族が初めてつくった国家とする説、などがある。建国の中心になった民族集団についても議論があり、最新の研究では高句麗の支配下にあった靺鞨族が中心であると考えられている(李成市「渤海史をめぐる民族と国家」『歴史学研究』六二六)。しかし、当時の日本の律令国家の支配者層は渤海を高句麗の継承国とみなしており、渤海のことを「高麗」と記した例があり、高句麗との関係を「旧例」として認識し踏襲するように求めた場合が多く、朝貢国とみなしていた。



目次へ  前ページへ  次ページへ