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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
     二 嶺北地方の条里
      足羽郡条里の復原
 郡内にあった東大寺領荘園のうち、道守村・糞置村は、現存する開田地図三幀によって従来から現地比定がなされてきた。厳密な現地比定はともかくとして、おおよその位置についてはまったく異論がない。それは、両村の開田地図に描かれている地形(とくに周辺の山や河川)などが、つい最近の都市化以前の景観と符合するからである。道守村は足羽山・兎越山西側の旧社村一帯、糞置村は文殊山北麓の二上・帆谷・太田(福井市、以下旧大字名で表記)付近である。
 両村の開田地図には、条里プランの方格線と条里呼称法が記されているので、両村の厳密な現地比定によって足羽郡の条里プランを確認できることになる。ところが、道守村比定地は、足羽山・兎越山によって条里地割の分布がみられる足羽郡東部から隔絶されたところに位置し、条里地割はみられない。それに対して糞置村比定地は、その北に広がる条里地割に連続する地割線がみられる。したがって、糞置村の現地比定によって、足羽郡の条里プランを復原できることになる。
図78 糞置村比定地付近の条里

図78 糞置村比定地付近の条里

 糞置村現地比定にかかわる最近の研究成果によって、開田地図にみえる条里地割線の検出・認定がなされている(栄原永遠男「越前国糞置庄と条里地割」『条里制の諸問題』二、金田前掲書)。それによれば、西南六条五・六里と同七条五・六里との里界線、西南六・七条五里と同六・七条六里との里界線は図78に示した位置である。さらに、開田地図にみられる六里が西で五里が東という配置から、南北基準線を求めることができる。このような基準線とそれによって推定される条里プランは、次のような小字地名によって確認することができる。
 西大味に「六ノ坪」、生部に「蜂之坪」がある。それぞれ東半部が西南九条二里「六」「八」に相当する坪区画となる。
 深見に「土佐町」、栃泉に「当町」がある。「十三」が「土佐」、「十」が「当」に転化したものと考えると、「土佐町」の東半部は東南七条一里十三坪、「当町」の南半部は東南七条二里十坪に相当する。
 足羽川右岸の曾万布に「市之坪」、印田に「東十字町」「西十字町」がある。先に想定した南北基準線を北に延長すれば、「市之坪」の東界と整合する。「一」が「市」、「十」が「東・西十字」に転化したものと考えると、「市之坪」の南半部、「東十字町」東側の部分において西北条里区の坪並配列に適合する。さらに、その東側の山麓に「一ノ坪」(大畑・宮地)がある。東北条里区の「一」の坪区画に相当する位置にほぼ適合するので、その「一ノ坪」の南界を東西の里界線とみてよいことになる。
 次に、「一ノ坪」のすぐ南の里の区画において、「藤之木」(大畑・宮地・次郎丸)「相ノ木」(大畑・宮地)がある。「十」が「藤」、「三」が「相」に転化したものと考え、さらに「相ノ木」を「十三」に相当する位置に考えると(これまでの研究でも指摘されているように、本来の序数詞の十の単位が欠落して一の単位だけが小字地名としてのこる事例はしばしばみられる)、東南条里区の坪並配列に適合する。「相ノ木」の北界(「一ノ坪」の南界でもある)が東西基準線となる。それにしたがえば、「市之坪」「東十字町」「西十字町」の位置は西北二条一里、「一ノ坪」は東北一条三里、「藤之木」「相ノ木」は東南一条三里となる。
 以上のようにして復原された結果は、南北線が北約二度西に傾く条里プランである。南北基準線は北から上中・殿下の集落、曾万布集落の東側、上東郷の東大字界、さらには岩倉と深見の大字界に、また、東西基準線は東から吉野ケ岳山麓の花野谷集落、曾万布を通って下馬と板垣の大字界、さらには花堂の北の大字界付近から八幡山に至る位置となる。南北・東西両基準線の交点は曾万布付近である。



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