こうした傾向は、奈良時代にもみられる。天平十二年(七四〇)の「越前国江沼郡山背郷計帳」には戸主江沼臣族忍人の戸の負担する税として、庸綿とともに「輸調 二匹一丈五尺」が挙げられている。一方、同計帳に残るもう一つの江沼臣族乎加非を戸主とする戸は、「輸調二匹七尺五寸」とあるだけで品名がないが、忍人の戸と同じく であろう。両者の戸の調の量と人数を比較すると、正丁一人の調負担量は 一丈五尺、四人分すなわち六丈で一匹とされたことがわかる。この一人分は賦役令に規定する 八尺五寸とは大きく異なるが、『延喜式』主計上では「凡諸国輸調。(中略)絹 <両面已下各長六丈。広一尺九寸>(中略)並四丁成疋。(後略)」とあり、ここでは「計帳」と同じく一人あたり一丈五尺となっている。このように奈良時代中ごろに調として、繊維製品の を出していたことが確かめられるのである。
さらに時代が下がるが、天長八年(八三一)四月には越前に対し、調の緋 に替えて橡の絹を出すように命じている(編三八六)。越前がこのように軽い繊維製品を貢納する国に位置づけられたのは、輸送の便を考慮してのことであろう。
なお当初、越前に属した加賀・能登が出す調は『延喜式』によると、繊維製品のほか熬海鼠・海鼠腸があり、これらは越前時代にも出していた可能性はあろう。 |