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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      郷(里)の分布
 右のように若狭の郷(里)の所在地をみてくると、いくつか気づくことがある。一つには郷(里)は一度設置されてものちに廃止されたり、逆に新たに設けられたりという変動があり、決して不動のものではないことである。たしかに『和名抄』にみえる郷の多くは藤原・平城宮木簡にすでにその名がみえ、木簡で確認できないのは遠敷郡安賀郷と大飯郡大飯郷、それに『和名抄』急本にのみみえる遠敷郡余戸郷・神戸郷・駅家郷のみであり、多くは七、八世紀以来の安定した郷(里)であったことがわかる。しかしその一方で、木簡には登場するが、『和名抄』にはない郷(里)がある。遠敷郡の岡田里・三家里・木津郷、三方郡の竹田(部)里がそれである。これらはいつしか廃止されたものであるが、その理由には人口の変動が考えられよう。当時、一郷(里)は五〇戸と決められていたから、人口・戸数が減少すると、郷(里)を維持することができなくなる。そうなれば他の郷(里)に吸収合併されたり、他の郷(里)の一部と合併して新たな郷(里)がつくられたりといったことが起こった。その結果が木簡と『和名抄』にみえる郷(里)名の相違として現われたのであろう。
 二つ目には、郷(里)の分布に偏りがあることである。一般的にその分布は河川の流域が多かった。すなわち、遠敷郡の北川沿いには遠敷郷・丹生郷・玉置郷・野里郷・安賀郷・三家里、佐分利川沿いには大飯郷・佐文(分)郷・岡田里、子生川沿いには木津郷、関屋川沿いに青郷、三方郡の川沿いには能登郷・三方郷、耳川沿いには弥美郷という具合である。これは河川流域の平地が農業生産力の高い地域で、人口密度も高かったからである。このうちとりわけ北川沿いに郷(里)の分布が多いことは一目瞭然である。そこは若狭のなかでも生産力の高い場所であり、多くの人口を養うことができた地域であった。若狭の前方後円墳の分布もこの地域に集中している。
 そして三つ目には、古代の地名のなかには、文字は変わることがあっても、現在まで存続している地名が多いということである。これまでの郷(里)の比定も、基本的には現存地名との比較という方法を採り、これがかなり有効であったことは明らかである。このことは地名がその土地の歴史を伝える重要な文化財であることを物語るものである。地名にはその土地の長い歴史が含まれているのであり、これを安易に変えることはその歴史まで失うことに通じるのである。



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