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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    二 若越と日本海文化
      渡来文化と地域間交流
 日本海文化の特色は、それでは若越の史的展開についても確かめられるであろうか。考古資料からするそれは次の三項で述べるので、ここでは、主に文献史料から検証しておくことにする。その場合、一項でみた日本海文化の特色を確認するだけではなく、その特色に若越の事象から付け加えたり修正できる側面があるかないか、こうした点にはとくに注意していきたい。
 まず、海外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという(編一四)。この伝承は、有名な天之日矛の渡来説話から派生したという説があるが、それは採らない(『敦賀市史』通史編上)。むしろ、「阿羅斯等」と「阿利叱智」は同義語で固有名詞ではなく新羅や加羅では貴人への敬称であり、意富加羅は大伽耶の一つである金海の加羅国だから、その地方から貴人が相次いで渡来したのを背景にして、あたかも特定の人名のごとく形象化されたものとみられるであろう。また、その形象化には、ツヌガアラシトが「額に角負いたる人」と表現されるところから、日本海域に分布する角坏とのかかわりをみる理解の仕方もある。しかし、気比神宮東方の境内摂社になっている式内社角鹿神社は祭神をツヌガアラシトとしており、また、笙ノ川上流の五位川流域を住地とした大市(首)氏・清水(首)氏・辟田(首)氏などは、いずれもツヌガアラシトの後裔と称した(『新撰姓氏録』)。もちろん、敦賀の地には、新羅系の式内社も散見する。要は、この説話は、敦賀に相次いだ朝鮮半島南部からの渡来人とその子孫が定着し発展したことを示唆するものといえるであろう。
 また、日本海域のほかの地域との文化交流についていえば、最近、小羽山古墳群(清水町)のなかで北陸では最古の四隅突出型墳丘墓が発見されたことが、まず注目される。四隅突出型墳丘墓は、中国山地に発したらしいが、弥生後期に主に出雲で発達した墳墓型式で、現時点では、丹後(京都府北部)・若狭(福井県西部)を除く日本海域にみられ、東は越中(富山県)にまで波及している。こうした日本海域西方からのコシ・ワカサの文化受容を示す文献史料は乏しいが、これは『記』『紀』などの古代文献史料はヤマト朝廷の史局によって編述されたからであろう。
 しかし、出雲国造の手によって編纂された『出雲国風土記』には、少なからずコシとの交流を語る記事がある。すなわち、出雲の建国神話ともいえる国引神話には、東の「都々の三崎(能登半島の珠洲岬)」を、志羅紀の三崎や日本海域のほかの三崎や小国とともに引き寄せたとある。『出雲国風土記』とともに『記』も、大国主命の、能登よりさらに東方の越の渟名川姫への妻問い説話を載せる。一方、越の人びとが、出雲西部の神門川下流域に移住したこともある(『出雲国風土記』神門郡古志郷条・狭結駅条)。ことに、古志郷については、その日淵川の流れによって「池を築造りき。その時、古志の国人等、到来たりて堤を為りき」とある。このことから、潅漑技術の指導をコシの人が行ったことがわかる。
 そうした技術指導ができたのは、平野を横切る多くの河川を制御し、のちに多様な継体天皇にまつわる治水伝説(石橋重吉『継体天皇と越前』)を生んだ越前であったから、この記事にみえる「古志の国人ら」はとりもなおさず越前の人たちであったとみてよいであろう。日本海文化の形成と発展には、このように、なりわいの基本であった農業生産にかかわる潅漑・土木技術の先進地から他地域への指導に移住した人びとの動きも、視野に入れておくことを忘れてはなるまい。



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