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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第一節 古代貴族のコシ・ワカサ観
    三 ヤマト貴族のワカサ観
      神話にみえないワカサ
 ヤマト貴族の、福井県域の東部を占めるコシについての印象や見方は、『記』『紀』の冒頭の国生み神話からしてさまざまに確かめられることは先述した(一項)。ところが、福井県の西端をなすワカサは、国生み神話にはまったくみえない。この点、コシの印象のされ方とは異質である。国生み神話といわず、ワカサは『紀』ではただ二例みえるだけ、それもたんなる地名としてである。一例は、垂仁天皇の時代のことという新羅王子天日槍の渡来伝承に、かれが播磨国から近江国吾名邑に移り、ここからさらに但馬国へ向かったときにただ「若狭国を経て」とあるだけのもの(編一五)、ほかの一例は七世紀も末(天武天皇四年)になって「能く歌う男女及び侏儒伎人」をほかの一二国とともに若狭国からも貢上した(写真35)、というものである。
 このように、ヤマト貴族のワカサ観を示す史料は『記』『紀』に求められないので、ほかに求めざるをえない。そこで「国造本紀」によって、若狭国造の任命記事を手がかりにしたいと思う。というのは、「国造本紀」には、大宝二年(七〇二)の「国造記」(『続日本紀』大宝二年四月庚戌条)の内容を語る伝承が残されているとみられているから、『記』『紀』が編述されたのとそれほど変わらない時期の記事として扱うことができるからである。
 若狭国造は、「国造本紀」によれば、「膳臣の祖佐白米命の兒の荒砺命」が「遠飛鳥朝御代」つまり允恭天皇の時代に任命されたという。ちなみに、福井県域にかかわると思われる高志国造・三国国造・角鹿国造は、「阿閇臣の祖屋主男心命の三世孫の市入命」・「宗我臣の祖彦太忍信命の四世孫の若長足尼」・「吉備臣の祖若武彦命の孫の建功狭日命」がそれぞれ任ぜられたが、その時期はいずれも「志賀高穴穂朝御代」つまり成務天皇の時代であったという。なお、吉備(臣)氏は、いま岡山県の吉備地方の在地にではなく、そこから出てヤマト朝廷に仕えた者たちが大和で形成した中央貴族であったことに、とくに留意する必要がある(門脇禎二『吉備の古代史』)。そして、コシの諸国造の祖が、阿閇臣・宗我臣・吉備臣三氏の祖になっているのには、それぞれに北陸進出の歴史的背景がある(第二章第四節、『敦賀市史』通史編上)。しかし、それら諸氏の越への進出より早い時代から、膳(臣)氏はワカサへ進出していた(狩野久『日本古代の国家と都城』)。膳氏は、早くワカサへ進出したのに、越へはよりのちに進出した右の諸氏と比べて、国造の任命期ははるかに遅いとされているのはなぜだろうか。当面、ヤマト貴族のワカサ観を探るため、ここでは、この任命期の問題に留意したい。

表15 国造の任命

表15 国造の任命
 すなわち、「国造本紀」の国造設置記事について、任命期を整理すると表15のようになる。「志賀高穴穂朝(成務)」の例がもっとも多いのは、成務紀の国県邑里を定め、国造・県稲置を置いたという記事(『紀』成務天皇五年秋九月条)に、「軽島豊明朝(応神)」は応神紀の吉備国の諸県分割記事(『紀』応神天皇二十二年秋九月庚寅条)に、「瑞籬朝(崇神)」は崇神紀のいわゆる四道将軍派遣記事(『紀』崇神天皇十年九月甲午条)の、それぞれに関連づけて述作されているのにすぎない。したがって、越前三国造の任命記事も、任命期を「志賀高穴穂朝」とする最多例の一つにすぎず、類型的で史実の反映とはみられない。こうしたことに配慮すれば、むしろ、若狭国造の初任期が「国造本紀」では唯一の「遠飛鳥御代(允恭)」=五世紀後半とされるのが異例なのである。
 『記』『紀』の国生み神話にも登場せず、「国造本紀」では、もっとも新しい時期に属する国、とワカサがみられていたのはなぜだろうか。それは、ワカサとヤマト朝廷との関係を、コシ諸地域よりはるかに素直に反映していた、とみるよりほかはない。ワカサは五世紀にはすでにヤマトと強く結びついていた。ワカサよりはるかに古いものとして仕上げられた中央貴族のコシ地域とのかかわりやその説話は、『記』『紀』を編述したヤマト朝廷の史局における述作によって整えられたものといえる。実際には、むしろコシより古い関係をもったワカサについては、ヤマト貴族は、コシほどに特別視する必要も違和感も覚えなかったものとみられる。
 しかしながら、ヤマト貴族のワカサ観には、コシより古い時代に果たしたワカサ制圧の過程における痕跡を、微妙なかたちだが、消し難くとどめていた。その点を、次に確かめておこう。



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