浜 T式のものは若狭の浜 遺跡(大飯町)、阿納塩浜遺跡・堅海定元遺跡(小浜市)の三か所で検出されている。時期は四世紀末〜五世紀前半で、倒坏形の脚部を有するブランデーグラス状の形態を有し、容量は一〇〇〜三〇〇tで小型の器種が多い。製塩炉は粘土敷炉である。
浜 UA式のものは若狭で一七か所、越前の新保A遺跡(三国町)で一か所検出されている。時期は五世紀後半〜六世紀前半で、薄手のコップ型で丸底を呈し、容量は三二〇〜三五〇tで規格化されている。
浜 UB式のものは若狭で二九か所、越前で六か所検出されている。古式は六世紀後半で、口径一〇センチメートル前後で、鍋底のような丸底を呈すると推測されている。新式は七世紀で、容量が二〇〇〇tに達する深鉢状の器形を呈する。製塩炉はいずれも敷石炉である。
このような変遷から、まず、備讃瀬戸で弥生時代中期に成立した台脚をともなう製塩土器が大阪湾沿岸を経て若狭にもたらされ、次に備讃瀬戸や大阪湾沿岸で薄い器壁の小型丸底土器が使用されはじめると、それが若狭にも波及したとみられる。一方、このころほかの地域では相変わらず台脚をともなう製塩土器が使用されている。この段階から、若狭の塩は、ヤマト政権の塩生産の一翼を担ったものと考えられる。さらに次の浜 UB式の段階になると、製塩土器はさらに大型化するとともに、遺跡数もさらに増加し、塩生産の増産がはかられたことがわかる。
越前の製塩土器も、若狭のそれと同じ変化を示すようであるが、遺跡数も現在のところ少なく、明確に位置づけることができない。 |