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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     三 継体天皇の治世
      継体朝の紀年と治世
 継体天皇の時代において最も大きな事件の一つは、いわゆる「任那四県割譲」問題であろう。しかもこの事件は、継体天皇七・八・九年条と、二十三年条に分けて記載され、理解を困難にしている。これが実は重複記事にほかならないことは、次に示す七・八・九年条(上段)と二十三年条(下段)の記載を対照したものによれば判然とする(笠井倭人「三国遺事百済王暦と日本書紀」『朝鮮学報』二四)。
 七年夏六月、百済、穂積押山臣を通じて、伴跛の己を乞う。  二十三年春三月、百済王、穂積押山臣に謂りて曰く、「夫れ朝貢の使者恒に嶋曲を避るごとに風波に苦しむ。茲に由ってもてる所のものを湿し、全壊してみにくし。請う、加羅の多沙津を以て臣が朝貢の津路とせん」と。
 九年春二月、百済の使者文貴将軍等、罷らんと請う。仍りて勅して物部連(闕名)を副えて遣わす。  是の月、物部伊勢連父根・吉士老等を遣わし、
 七年冬十一月、朝廷に百済・斯羅・安羅・伴跛の使者らを引列し、己・滞沙を以て百済国に賜う。是の月に伴跛国、珍宝を献って己の地を乞う。而るに終に賜らず。  津を以て百済王に賜う。是に加羅の王、勅使に謂って曰く「此の津は官家置きてより以来、臣が朝貢の津渉とす。安ぞ輙く改めて隣の国に賜うを得ん。元の封ぜし限りの地に違う」と。
  (八年)三月、伴跛、城を子呑・帯沙に築き、烽候・邸閣を置きて日本に備う。 是に由って加羅、儻を新羅に結びて、怨みを日本に生ず。
 是の月(九年二月)に沙都嶋に到りて、伴跛の人恨みを懐き毒をふくむと聞き、物部連、舟師五百を率て直に帯沙江に詣る。 勅使父根等、斯に由って、まのあたり賜うを難しとして大嶋に却き還る。別に録史を遺して果して扶余に賜う。
 夏四月、物部連、帯沙江に停まること六日。伴跛、師を興して往きて討つ。衣裳を逼め脱ぎ、もてるものを劫掠し、尽く帷幕を焼く。物部連ら怖じ畏れて逃遁る。僅に身命を存して慕羅に泊る。
 この上段は主として百済側の史料により、下段は主として国内の史料によっている。それゆえ、上段では加羅が伴跛という地域に即した名称でよばれている。そのため『紀』の編者は、両者が同一事件を扱っていることに気づかなかったのであろう。ここで上段の継体天皇七・八・九年条にまたがる事件が下段では二十三年条にまとめられている。この約一四年の差は何故に生じたのか。 笠井によれば、百済の聖王の元年には、(1)五一三年(『三国遺事』即位干支)、(2)五二三年(『三国史記』)、(3)五二四年(『紀』百済王暦)、(4)五二七年(『三国遺事』治世年数)の四史料があるという。継体天皇九年は、(1)にもとづく聖王三年であり、継体天皇二十三年は(4)にもとづく聖王三年である。すなわち加羅割譲の事件はともに聖王三年という時点において一致する。同様に磐余玉穂「遷都」は、継体天皇二十年とする本文のほか、七年とする「一本」の説がある。前者は(4)による聖王年の前年、すなわち武寧王の末年にあたる。後者は(1)による聖王元年にあたるが、これは当年称元法によっているので、同時にまた武寧王末年にもあたっている。したがって両者は武寧王末年という時制表示において一致するのである。
 しかし、絶対年代としてどちらが正しいかが示されてはいないが、武寧王陵碑の発見によって、武寧王の没年は五二三年であることが確実になった。これが継体天皇七年にあたるとすれば、継体天皇即位の年は五一七年と考えられる。すなわち『紀』の継体天皇即位五〇七年は、約一〇年さかのぼって設定されていることになる。このことは、継体天皇の治績の理解にもかかわってくる。一般的にいわれるように、継体紀は、内政関係史料が乏しく、外交関係史料が大部分を占める。なかでも、いわゆる「任那四県割譲」問題と朝鮮半島出兵にかかわる「磐井の乱」問題である。



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