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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     二 継体天皇進出の背景
      茨田・和・阿倍氏
 継体天皇の后妃のうち、残るのは『紀』における茨田連小望の娘である関媛と和珥臣河内の娘である媛と、『記』における阿倍之波延比売である。茨田の関媛の所生三人のうちの下二人、白坂活日姫皇女と小野稚郎皇女は、『記』においては坂田大俣王の娘・黒比売の子として記載されているから、『記』の方は坂田大俣王の次に記載しようとした茨田連を落としてしまったのであろう。茨田は淀川の左岸、現在の大阪府寝屋川市・守口市・門真市のあたりである。
 オホトが何故に河内の豪族と婚を結びえたかは明らかではないが、継体天皇が最初に宮を置いた樟葉(大阪府枚方市)とはきわめて近いし、河内馬飼首荒篭も河内の住人と考えられるから、オホトが早くから河内と何らかの連携をもっていたことは確かである。茨田連の記載順は、『紀』では息長真手王と三尾君堅の間、『記』でも三尾君加多夫の前で、『記』『紀』とも記載は大体年代順になっているようだから、茨田連も継体政権の成立を支えた氏族の一つと考えられる。
 『紀』の和珥臣河内の娘媛と『記』の阿倍之波延比売とは、ハエヒメという名を同じくしているので、おそらく同一人物であろう。
 ワニ氏は五世紀代において、ほとんど歴代の大王に后妃を出している大族である。『紀』は孝昭紀に「天足彦国押人命は此和珥臣等が始祖なり」と記し、『記』は孝昭天皇段に「天押帯日子命は、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高臣・壱師君・近淡海国造の祖なり」と、実に一六氏にも及ぶワニ氏の同族を列挙するが、ここに阿倍氏の名はない。周知のように阿倍氏は、『紀』が大彦命の子孫とする七氏の一つである。
 ワニ氏はおそらく近江の和迩(滋賀県志賀町)を本拠とし、のちに大和の和爾(奈良県天理市)に移って多くの分枝を生んだのであろう。なかでも春日氏がその本家であって、六世紀にはワニ氏とはいわず春日氏を称していたらしい。継体紀における和珥臣河内が『紀』において和珥氏の名がみえる最後の記載なのである。その前には、和珥臣日爪(一本和珥臣日触)の女が仁賢天皇の妃となり、春日山田皇女を生んだとの記述がある(この春日山田皇女が安閑の皇后となる)。欽明紀には、春日日抓の女を妃としたと記し、敏達紀には、春日臣仲君の女老女子夫人を夫人としたと記す。しかし、これがワニ氏が皇妃を出した最後である。このようにみてくると、当時ワニ氏は衰退期にあり、和珥臣河内の娘を娶ったのが継体天皇の即位前か即位後かはよくわからないが、継体天皇の後ろ楯としてそれほど大きな力となりえたとは思われない。
 では『記』の伝えるように阿倍氏の出としたらどうであろうか。阿倍氏について実在の人物として確かなのは宣化紀に出てくる阿倍大麻呂臣で、大夫に任ぜられたとあるのが最初である。ついで崇峻紀に阿倍臣人および阿倍臣某が現われ、後者は、越などの諸国の境を観察した人物として名高い。したがって継体天皇の時代に阿倍氏はまったく無名の氏族であったが、継体天皇の妃の一人を出した縁故で宣化朝ごろから台頭し始め、崇峻朝に北陸に勢力を扶植した。阿倍氏が全盛に達するのは、孝徳朝に倉梯麻呂が左大臣に任ぜられるころで、このころ大彦命を祖先としたのではなかろうか。ハエヒメの『記』『紀』における食違いの理由について明らかにすることはできないが、いずれにしても継体天皇の後背勢力としてはさして有力な存在ではなかったであろう。



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