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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    四 石油危機下の工業と減量経営
      減量経営と労使協調の定着
 こうした急速なコスト・ダウンのスムーズな進行を可能にしたのは、配置転換・出向・一時帰休・解雇といった雇用調整を中心とする「減量経営」の実施とこれに対する労働者の適応であった。
 表172は県内の企業整備にともなう人員整理状況を示したものである。部門別にみると、当然のことながら繊維工業の企業整備が最大であり、変動が比較的少ない建設業をのぞくと、ついで大きいのは電気機械器具、機械工業である。また繊維工業が二度の石油危機後ともに解雇数が著増しているのに対し、電気機械では変動が激しく整理規模も大きいこと、機械工業では第一次石油危機後の整備が比較的長期であること、またいずれも第二次石油危機後の整備は軽微であったことが指摘できる。

表172 企業整備状況(1974〜85年度)

表172 企業整備状況(1974〜85年度)
 さらに、一件あたりの解雇数を算出すると、全業種で一九七四年度(昭和四九)は六・三人、七五年度は五・五人であるのに対し、七六年度には九・五人と上
昇し以後八〇年度まで一〇人前後を維持するが、八一年度より整理規模は縮小しており、このような推移はほぼすべての部門で指摘できる。人員整理を実施した企業の規模の詳細は明らかではないが、第一次石油危機直後の人員整理が中小企業主体であったのに対して、大企業のそれは相対的に遅く、かつ第二次石油危機を比較的小規模の整理で乗り切ったものと考えられよう。たとえば芝浦製作所小浜工場では、七四年一〇月末に期間従業員の全員契約解除を皮切りに社員の一時帰休、管理職の職責手当の三割カットを実施し、翌七五年には臨時従業員の解雇、嘱託および特別職員の解雇・退職勧奨、雇用調整給付金制度の適用による一時帰休の拡大、さらに東芝各工場への数次にわたる応援派遣を開始している(『五〇年のあゆみ』)。このように、比較的規模の大きな企業は、非正規従業員の整理と正規従業員の一時帰休・出向・配置転換によって対応し、正規従業員の解雇はいわば最終手段であった。セーレン、酒伊繊維などで正規従業員の希望退職者募集を労働組合に申し入れるのは七七、七八年のことであり、これら大企業では正規従業員の雇用をできるだけ配慮することにより、彼らの生産合理化への協力をとりつけようとしたのである。
 これに対して労働組合も正規従業員の最小限の雇用維持と引き替えに賃上げ要求を抑制し、春闘相場も七四年をピークとして急落した。また労働争議にともなう労働損失日数も、七五年の公労協のいわゆるスト権ストの失敗を契機に急速に減少し、労使協調路線の定着がいっきょに進行した(図84)。こうした状況は全国的に共通しており、ここに、企業の生産性向上への協力を前提とする限りで長期雇用と年功制が維持されるという、いわゆる日本的な労使関係が確立することになった。
図84 労働損失日数・春闘平均賃上げ率(1970〜84年)

図84 労働損失日数・春闘平均賃上げ率(1970〜84年)




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