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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    三 漁業・漁村の新しい動き
      遠洋漁業への挑戦
 一九五四年(昭和二九)五月に水産庁は、生産の停滞・減少で行き詰っている沿岸・沖合漁業を他の漁業へ転換することをねらいとした「漁業転換促進要綱」を発表した。また、五六年二月には北緯四八度以南におけるサケ・マス延縄漁業の許可制を導入した。福井県漁業関係者はこれらの方針を北洋漁業へ進出する絶好の機会ととらえ、福井県北洋漁業協同組合を結成した。県を通じての水産庁への陳情が功を奏して、五六年度の北洋漁業につき八隻の操業許可を得ることができた(資12下 二三九)。これにより本格的な遠洋漁業への取組みが開始された。
 五六年五月、小浜水産高校実習船雲竜丸に先導されて敦賀を出港した北洋漁船団は、釧路を根拠地としてサケ・マス延縄漁業に取り組んだ。二か月あまりの操業成績は、八隻で約八〇〇万円と目標の半分にも達せず、収支決算は大幅赤字となった。その原因は、参加した底曳網漁業からの転用船が一六・六トンから二六・二トンと小さく、シケの多い海に対応できなかったこと、乗組員に北洋漁業経験者がほとんどいなかったことなどによるものであった。そこで県北洋漁協組は、翌年から三〇トン程度の大型船を準備し、岩手県から多数の漁師を雇用し、北洋サケ・マス延縄漁業に挑んでいった。しかし、十分な成果を得られないまま六〇年には同漁業からの撤退を余儀なくされた。サケ・マス流網漁業と延縄漁業との間でトラブルが多発したこと、福井県の漁業者には北洋漁業に対するノウハウの蓄積がなかったこと、などにより採算ラインの漁獲をあげることができなかったことが原因である。
 サケ・マス漁業への再度の取組みがはじまったのは、六七年のことである。日本海全域を漁場とする日本海サケ・マス延縄漁業に二三隻の試験操業が認められ(『若越水産』第一二七号)、この年一〇〇〇トンのサケ・マスが漁獲された。以後同漁業は、ソ連の「二〇〇カイリ漁業専管水域宣言」(七六年一二月)によるサケ・マス漁業へのきびしい規制がなされるまで続けられていった。
 六三年一月、遠洋漁業への転換を促進する県当局と県漁連の肝煎りで、半官半民の福井県漁業公社が設立された。県漁業公社所属の第二福井丸(一一一トン)は三崎港・徳島港を根拠地として、南太平洋でのマグロ延縄漁業に従事した(『若越水産』第一〇九・一一六号)。同船は期待どおりの実績をあげることができずに六七年には売却され、県漁業公社は五〇〇万円の赤字を計上した(『読売新聞』70・5・27)。
 六五年五月には、県下のまき網漁業者を糾合して県漁業株式会社が発足した。まき網漁業の転換をはかるために六隻のまき網漁船を廃船とし、第三・第五福井丸(ともに二二九トン、総工費二億九四〇〇万円)を建造し北洋ベーリング海のトロール漁業に進出した。いわゆる「北転船」の誕生である。第三・第五福井丸は、青森県八戸港を根拠地としてトロール漁業でスケソウダラ・カレイなどの漁獲をめざすことになった。初年度は六〇〇万円の赤字を出したが、翌年には二億五〇〇〇万円の水揚げをし、まずは順調なすべりだしとなった。六七年度には一八〇〇万円の赤字となったものの、六八年度から七〇年度はわずかながら黒字となった。この結果をふまえて、県漁業株式会社は七〇年末に第八・第一〇福井丸(ともに三四九トン、総工費五億二〇〇〇万円)を竣工させ規模の拡大をはかり、漁獲高の増加を狙った。豊漁と主たる対象魚種のスケソウダラの魚価上昇とがあいまって、七一年度には五億円の水揚げとなった。以来順調に漁獲高を伸ばし、七三年度には六億五〇〇〇万円を水揚げし配当五割を達成した(『若越水産』第一一六号、第一二六・一二七合併号、第一六四号)。
 しかし、好調は長くは続かなかった。二隻の北転船にとってアメリカに続くソ連の二〇〇カイリ経済水域宣言は大きな打撃となった。北転船の全水揚げがアメリカ・ソ連の同水域内での操業で得たものであったからである。七七年以降北転船による水揚げは激減し、八二年からは一隻操業体制となり、八五年には北洋漁業に終止符がうたれた。



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