山林地主は戦・震災復興期から用材林の伐採を続け、高度成長期に入って需要がふえると生長量を上回る過伐に走ったが造林意欲は低調であった。しかし製炭業の破滅に直面し国・福井県は林業の再建に取り組まざるをえなくなった。その方向は用材林の産地化をめざすものであったが、高度成長にともなう産業構造の激変で農山村からは若年労働力が流出し、過疎化の進む山村での構造改革の道のりは長く険しいものであった。国の方針は生産性の低い天然広葉樹を生産性の高い針葉樹の人工造林に転換する、いわゆる拡大造林政策である。福井県は全国平均の二倍以上の薪炭用材林野をかかえるだけにいちはやく国の政策に呼応し、一九六一年(昭和三六)に「植林地倍増計画」を策定した。五万ヘクタールの人工造林を七六年に一〇万ヘクタールに拡大しようというものである。七一年には「福井県民有林造林長期計画」に改定し本格的な奨励に乗りだした。六二年四月に丸岡町女形谷で昭和天皇を迎えて開催した全国植樹祭はそののろしであった。しかしながら林業だけで自立できるといわれる二〇ヘクタール以上保有の専業林業者は、六一年現在で一・八%という心もとない状況だけに、投下資本の回収に長期を要する造林を簡単に引き受ける地主は少なかった(『県統計書』)。それでも六四年の「林業基本法」、翌年の「山村振興法」の制定に続く林業構造改善事業の市町村指定(敦賀市など一二市町村)などによってようやく環境が整った。生産基盤である林道整備はこのころから本格化し、大幹線林道(スーパー林道)・幹線林道・一般林道・県単独林道などの事業区分によって開設されていった。八六年度末における幅員三・六メートル以上の林道網(自動車道)の総延長は一一一五キロメートルに達している(『国産材時代に向けての福井の林業』)。現地で造林作業を請け負う森林組合も作業班員を増員して事業は急ピッチで進められた。 |