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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    三 奥越電源開発と原子力発電所の誘致
      発電所の建設
 日本原電が総工費三二三億円を投じて建設することになった敦賀一号機の工事が本格的に動き出すのは一九六五年(昭和四〇)になってからである。工事の前提となる県道浦底敦賀停車場線の浦底・常宮間(いわゆる原電道路)改良工事は、総工費四億七五〇〇万円(日本原電が三億二五〇〇万円、県と敦賀市が一億五〇〇〇万円負担)で三月三一日に着工した(『福井新聞』65・4・1)。
 原子炉の炉型についても米国ジェネラルエレクトリック(GE)社製の沸騰水型炉(BWR)にするのか米国ウェスティングハウスエレクトリック(WH)社製の加圧水型炉(PWR)にするかについて検討が進められていたが、六五年九月三〇日にはGE社製の沸騰水型軽水炉出力三二万五〇〇〇キロワット(のちに三五万七〇〇〇キロワットに変更)の採用が決定した。のちに日本の原子炉は原料に濃縮ウランを、減速材・冷却材に軽水(普通の水)を使う軽水炉が一般的となったが、東海村の一号炉が英国GEC社のコールダーホール改良型(天然ウラン黒鉛減速炭酸ガス冷却型)であったのに対して、初の軽水炉導入であった。沸騰水型も加圧水型もともに軽水炉であるが、加圧水型が原子炉圧力容器内に減速材・冷却材として加圧された水(一次冷却水、一五七気圧)を入れ、これを約三二〇度に熱し(加圧してあるため沸騰しない)熱交換器(蒸気発生器)により二次冷却水を沸騰させて得られた蒸気でタービンを回すものであるのに対して、沸騰水型は原子炉容器内の水を沸騰させ直接タービンを回すものである。
 漁業補償についても六六年二月二三日、敦賀市漁協と日本原電の間で浦底湾漁業補償協定が五一〇〇万円で成立した。浦底湾の奥、奥壺湾と呼ばれる約二五万平方メートルの海域について敦賀市漁協の漁業権が設定されていたのを永久に放棄したのである。同年四月二二日、敦賀発電所建設計画は内閣総理大臣による認可を得、六七年五月二日に起工式が行われ、六九年一〇月三日には原子炉が臨界に達した。営業運転の開始は大阪万国博覧会の開催日、七〇年三月一四日であった(『福井新聞』66・4・23、69・10・3、70・3・14)。
 発電所建設用地として敦賀市側と同時に決定されていた美浜一号機建設は、敦賀一号機に遅れること約半年後の七〇年一一月二八日に営業運転を開始した。こちらの発電所については建設主体が関西電力になり総工費二九八億円が投じられることになった。
写真89 建設中の美浜原子力発電所

写真89 建設中の美浜原子力発電所

 道路整備について交渉がまとまったのは六五年一一月三〇日で、県道白木美浜線の佐田・丹生間(いわゆる関電道路)の改良工事が総工費二億五九〇〇万円(関電側負担一億六五五〇万円、県・美浜町負担九三五〇万円)で一二月一〇日に着工されることが決められた。六六年四月二七日には炉型として米国WH社製加圧水型軽水炉出力三四万キロワットが採用されることになった。ちなみに、動力炉・核燃料開発事業団の「ふげん」「もんじゅ」を別として、現在福井県にある商用原子炉は、日本原電の敦賀発電所一号機以外はすべて加圧水型である(『電力』、『福井県の原子力』、『福井新聞』66・4・27)。
 丹生湾口には大敷網があり丹生地区の漁業への依存度はかなり高かったため、丹生漁協および真珠養殖業者との漁業補償はやや難航した。結局、永久に漁業権を放棄させる消滅水域三三万二〇〇〇平方メートルと漁業権は存続するが将来いかなる漁業への影響があっても現時点で打ち切り補償する影響水域約九六万平方メートルを定めたうえで、六六年五月三一日、総額一億一二〇〇万円の補償で正式調印となった(『福井新聞』66・6・1)。民間企業としてははじめての原子炉の起工式は六七年五月一六日で、七〇年七月二九日に臨界に達し、一一月二八日、営業運転を開始した。



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