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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    三 戦後繊維産業政策の展開
      調整組合役員リコール問題
 こうしてようやく安定法による調整の実効化が進められたが、皮肉なことに一九五四年(昭和二九)秋より景気の回復がはじまっていた。一〇月にはインドネシア、シンガポール、香港等の引合が増加し、輸出向け人絹織物が採算ベースに乗るようになった。人絹糸価格が五五年なかばまで漸次下落していったことも織物の増産に拍車をかける大きな要因であった。また、フラット・クレープが人絹糸メーカーの賃織品として服裏地使用に進出したり、従来裏地の主流であった朱子も細番手使いの高級化によりあらたな展開をみせるなど、製品の高級化が進むとともに、カラミ織や変り織、交織物もふえ、品種転換のかけ声のもとに製品の多様化も進展した(『福井繊維情報』55・2・4、4・20、6・30、9・24)。この結果、調整組合への超過生産申請も朱子産地の吉田地方、平地の丹南地方を中心に毎期ごとに増加していった。織機台数についても、設備制限令発動当初は増加が抑えられていたものの、制限外織機の増設や、後述する五六年六月の「繊維工業設備臨時措置法」成立にともなう駆け込み増設により、著しい増加をみた(表115)。

表115 広幅織機台数の推移(1954〜59年)

表115 広幅織機台数の推移(1954〜59年)
 この好況への転化により五五年なかばよりふたたび原糸価格は上昇に転じ、翌五六年はじめには織物の生産過剰が生じるなかでフリー糸利用の中小機業による糸の確保を求める声がふたたび高まり、七月五、六日に県下いっせいの同盟休機が行われた。そして、これを機に七月四日には不況対策期成同盟会(会長長谷川清)が系列外機業の利益代表を標榜して設立された。同盟会は一〇月二四日、役員の忠実義務違反を理由として県調整組合役員(調整組合は六月三日に輸出向け、内地向け両組合合併)のリコール請求を提出した。署名は組合員二四八八名中七八八名で、必要署名数である五分の一をこえるものであった。加藤尚、久保義隆ら長老の調停も不調に終わり、一一月六日に前田理事長、宇野治郎兵衛・畑岡彰両副理事長が辞表を提出し、一六日辞表が受理された。
 このリコールは長年の前田体制に対する反感を背景とする地区組合幹部らによるクーデターであったが、不況の再発にともなう、以下のような繊維行政の行詰りがその背景となっていた。
 第一に、七月の通産省・人絹関係五団体(日本化学繊維協会、日本絹人繊織物工業会、日本絹人絹織物商協会、日本絹人絹糸商連合会、日本絹人繊輸出組合)の代表者会議において、品種別調整を行うことが決定され、いわば天下り的に産地の説得工作がはじまったことである。福井産地では、武生、勝山組合などのように全面的に反対を唱え、現行の生産実績割ではなく機台数割にして一台あたり最高生産量の引上げを要求するものから、吉田組合のように品種別調整には賛成するものの織機の品種別登録については品種転換を阻害するとして反対を主張するものまで意見もまちまちで、説得による一本化は困難であった。じつは、この問題をめぐっては石川県でも岸加八郎県調整組合理事長の辞任という事態が八月に発生していた。石川県の場合は、平、朱子という同県の主要品種の生産制限による打撃の大きさへの懸念に加えて、従来から機台数による割当に固執する福井県との同一歩調は難しいとの判断から、県業界の幹部である産地商社間の意見対立が高じた結果であった。したがって福井県とはかなり事情が異なっていたものの、前田とともに産地絹人絹織物業界の代表的存在であった岸に対する造反は、福井県の業界の動きに大きな刺激をあたえるものであった(『福井繊維情報』56・8・7、17、21、24)。
 第二に、原糸の共同購入による割安人絹糸の受入問題が一向に進展しなかった。人絹糸メーカーの生産能力が頂点に達して逆に原糸の生産過剰による値崩れが懸念される事態となっており、人絹糸メーカーは五六年はじめより原糸の建値制(生産コストに一定のマージン率を加えた価格での売渡)を主張して、糸価の維持をはかろうとしていた。一方通産省は、糸価安定のために七〜九月期の輸出用原糸を織物用に割安で放出するようメーカーに勧告し、これをうけて県下の系列外業者の一部に生産ブロックを結成する動きが現われた。しかし、放出のさいに地区組合を通じて配分された糸を受け取った機業のなかにこれを転売したり投機的に流用する者がおり、かえってこれら系列外業者に対する通産省の不信を強める結果となった。このため通産省の原糸あっせんは頓挫したかたちとなっていたのである(『福井繊維情報』56・5・19、6・22、7・22、9・27、10・12)。
 正副理事長辞任の収拾は困難をきわめ、一一月末に宇野ら五名の代行委員が暫定的に選出されたが、同盟会側では全役員の改選を主張し、結局翌五七年一月一五日に役員の改選選挙が行われた。しかしながら後任正副理事長の選出はなお難航し、ようやく四月二五日、理事長に長谷川清、副理事長に斎藤勇・山本竹次郎が選任された。この間、つぎにみる織機買上げが事実上福井産地不在のまま決定されることになり、以後、繊維産業政策をめぐる福井産地の発言力は低下せざるをえなかった。なお調組正副理事長の後任決定に先立って福井県繊維協会の会長の選出が行われたが、織物業界(製造部会)からの選出はかなわず(前任は前田)、加工部会から滝波清(福染興業社長)が就任した。



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