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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
     二 道路・鉄道の改良と河川改修
      国道の改良
 一級国道八号線(旧一二号線)と同二七号線(旧三五号線)は、それぞれ旧北陸道と若狭街道(丹後道)にあたり、この二つの国道を幹線として各地に支線が延び、県内の道路網を形成している。自動車の普及に対応する本格的な工事は、この二本の国道改修工事にはじまる。すなわち、一九三三年(昭和八)秋の陸軍大演習にあわせて、時局匡救事業として行われた福井市北部の改修にはじまり、その後も、内務省の直轄工事として、福井・武生間(福井国道)、敦賀・滋賀県境間(名敦国道)、高浜・京都府境間(舞敦国道)の三区間に分かれて、おもに関西・中京方面との物資輸送、および軍事面の要請によりそれぞれ着工されたが、戦局の悪化にともない、工事は大幅に遅れて敗戦をむかえた。戦後の復興にともなって国道改良の要望も高まり、四七年一〇月には県議会の働きかけにより国道改修促進期成同盟会も発足、建設省による工事再開の機運も高まった。四八年六月の福井震災はその出端を挫くことになったが、県外からの救援物資の遅滞は、県民の国道改修への願いをさらに大きなものとした。
 戦前、福井市南部から開始された福井・武生間の国道改修は、戦時下で作業がとどこおり、また、民家密集地で用地買収にてまどったこともあり、約三〇〇メートル(幅員一八メートル)の砂利道を完成したにとどまっていた。震災後の四八年一〇月には建設省の手により工事が再開され、五一年には神明町に達するとともに、工事促進のため武生側からも着手されたこともあり、五七年には完成した。この工事は、在来国道の拡幅改良と異なり、高速交通路線的性格をもたせるため、カーブと勾配の緩和をはかり、幅員は一〇メートル(福井市、武生市、神明町、鯖江町の都市計画路線と併用する区間は一五〜一八メートル)の新しい道路を建設するものであった。
 福井震災の被害の大きかった福井市以北の国道改修工事は、九頭竜橋(旧舟橋)の架替えを含めて、震災復旧事業として県の手で進められ、森田町内は震災復旧都市計画事業として整備の後、国道に区域変更された。坪江村以南の国道も、四八年より災害復旧および一般改良事業として県の手で改良され、五三年には坪江村以北が一般改良工事として着工された。五八年、この年スタートした国の道路整備五か年計画により、福井・石川県境区間が建設省の直轄工事となり、金津町中川(旧坪江村)付近より県の工事を引き継ぎ、六二年に石川県境までの改良工事が完了した。五三年に福井市側から着手された舗装工事は、五七年に福井・武生間が完成、六三年には石川県境牛ノ谷峠の舗装が完成して、武生市から石川県境までの改良舗装工事が完了した。
 県内国道の最大の難所は、敦賀・武生間の約三五キロメートルの区間で、敦賀湾沿いの断層崖中腹の地滑り地帯をとおり、木ノ芽山地を縫うように走る、平均幅員四メートルの道路であった。平均所要時間は一時間半とされていたが、すれ違い待ちなどで通常三時間を要し、くわえて、積雪が一メートルをこえることから、一一月から三月までの五か月間は一方通行を余儀なくされ、雪崩や集中豪雨による土砂崩れも多発し、たとえば、五六年と五七年の年間通行止め日数はそれぞれ二四日と二八日におよんだ。
写真75 敦賀有料道路

写真75 敦賀有料道路

 五二年の「道路整備特別措置法」により、有料道路建設の道が開けたことにより、県は武生市妙法寺・河野村具谷間七六二〇メートルを有料道路として改修することを決め、五五年一〇月に事業認可をうけ、ただちに武生トンネルの工事に着手し、五六年四月日本道路公団発足とともにこれに引き継ぎ、五八年一〇月武生有料道路として完成した。この工事中の五六年九月には付近の国道で観光バスが転落、死者一〇人を出す大事故もおきており、とくに完成の待たれた道路であった。つづいて、敦賀市杉津・河野村大谷間の敦賀有料道路が五九年七月道路公団により着工され、六二年七月完成した。またこの二つの有料道路に挟まれた区間約七キロメートルの改良工事は、五八年より建設省の直轄事業として着工された。断層崖の地滑り地帯に八つのトンネルを掘る工事は、落盤、崩壊、出水に悩まされる難工事であったが六四年一二月には舗装工事を完了、武生トンネル着工以来一〇年の歳月を費やして、ようやく県内最大の難所を克服した。これにより県内八号線の改修舗装工事が完了した。



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