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 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    三 町村合併の促進
      町村合併促進法の公布
 自治庁は、全国町村会および全国町村議長会等の要望をうけて、町村合併を推進するための特別法の制定に取り組み、両機関との協議を経て一九五三年(昭和二八)二月に法律案を作成した。五三年八月八日に、「町村合併促進法」が三か年の時限立法として成立し、九月一日に公布、一〇月一日に施行された。九月一一日、政府は閣議で今後三年間におおむね現在九六ある町村数を三分の一にすることをめどとして、強力にその推進にあたることを決定し、町村合併促進本部の設置を決定した。
 この閣議決定にもとづき、同本部は一〇月二四日、「町村合併促進基本計画」と「町村合併基本方針」を決定した。町村合併促進基本計画では、合併によって六二四九町村を減少させ、合併計画完了後の町村数が三三七三となるとして、五五年四月に議員、首長の選挙があるので、それまでに目標の八〇%を達成することとした。この目標を達成するために、各都道府県は本年中に管下町村の実態調査を完了すること、五三年一一月一日までに町村合併促進審議会を設置し、五四年三月末日までに各都道府県合併計画を作成することになった。町村合併基本方針では、法の規定では町村の標準人口は八〇〇〇人以上とされているが具体的事情に応じてできるだけ規模を大きくすること、八〇〇〇人を上回る町村でも他の弱小町村を解消してその行財政能力を発展させるためにその合併を促進すること、一、二の弱小町村が取り残されないこと、郡の境界に拘泥しないことなどが明記された(『地方自治百年史』)。
 これらの計画や方針にもとづき作成された中央の町村合併実施計画では、九六二二の全町村の八五・八%を占める人口八〇〇〇人未満の町村八二四五について、地勢その他の理由により合併不可能の町村二七五をのぞき七九七町村を合併可能町村として、三年間で六二八一町村を廃止することを決定した。福井県については、人口八〇〇〇人未満の町村数は一四、合併不可能村数は二、合併可能町村数は一三八とされた。そして、三年間で一四の町村を減少させることになった。
 福井県は、中央で町村合併促進法案が国会に提出されようとしていた時期の五三年六月六日に、福井県町村合併計画試案を公表した(『福井県町村会六十年史』下)。この試案では、一町村平均人口を八〇〇〇ないし一万人とし、面積平均を三〇〇平方キロメートルを目標として、五四年度までに現在の一四六町村を四八ブロックに集約しようとする構想を打ち立てた。具体的な内容からなるこの試案が発表されると、県下の各市町村には大きな衝撃となり、町村合併に対する関心がますます高まることになった(『福井新聞』53・7・17)。さらに、県は九月県議会に「福井県町村合併促進審議会条例」を提案し、その議決をうけて一〇月一五日に同条例が公布され、一一月二日審議会委員を委嘱した(資12下 八一)。
 一一月六日、審議会は町村合併促進基本方針を決定した(『福井新聞』53・11・7)。この基本方針は、国の町村合併基本方針とほぼ同じ内容であり、国の計画どおり、人口八〇〇〇人未満の一四町村のうち最終的に一四町村を減少させることをめざしている。審議会は県の合併計画試案を妥当であると認め、以後の審議会の活動機構として常任委員をおき、また地方事務所単位にその管内の合併促進の基礎調査にあたるための地区委員をおくことを決定した。県は、町村合併について県民の理解を深めるために、NHKに依頼して街頭録音を行い、ラジオで全県に放送したり、町村合併に関する印刷物を県内各地に配付するなどさまざまな努力を行った。福井県では、五四年一月一日に合併第一号としての上中町、南条村の新設がみられた。
 五四年の前半は、市制設置への動きが活発になった。それは、五四年九月二一日以降は市設置の法定要件である人口要件が従来の三万から五万に引き上げられることになる改正規定が施行されるため、市制設置を急ごうとする地域があったからである。福井県では、大野町周辺ブロックと勝山町周辺ブロックが、たがいに同じ時期に新市設置にむけ熱心に努力を行った。そして、五四年七月一日に大野市、九月一日に勝山市が新設された。五四年の前半は、このほかにも町村の市への編入が増加したが、これらの動きに対して市部を大きくしすぎる、市の新設をねらいすぎるという批判もでてきた。この問題について、審議会は同年六月一二日に町村合併に関する適正規模の限界について答申を行った。そのなかで、あらたに設置する公共団体の規模にも一定の限界があるとして、適正規模をこえる公共団体の設置に歯止めをかけようとした。
 福井県では、五三年度に一五町村が減少し、五四年度には七七町村が減少し、五四年度末で九二町村が減少したため、国、県の合併全体計画で減少予定とされた一四町村に対して、八八・五%の達成率となっている(資12下 八二)。県は五五年八月四日に未合併町村の合併について審議会に諮問を行い、審議会は残余の町村の速やかな合併が必要であるとの答申を行った。
 全国の町村合併は、町村合併促進法が失効する五六年九月三〇日には、国の合併計画に対する進捗率が、全国で九八%、福井県で一〇〇%となり、都道府県の合併計画(福井県の減少予定町村数は一〇九に変更)は、全国で八九%、福井県で九五%となった。全国の市町村数は五三年九月三〇日現在で二八五市、一九六八町、七六四二村で合計九八九五であったが、五六年九月三〇日現在では、四九八市、一九〇四町、一五七一村で合計三九七三となった。福井県では表100にみるように、五三年九月三〇日現在で四市、一八町、一二八村で合計一五〇であったが、五六年九月三〇日現在では七市、一八町、二四村で合計四九となった(『地方自治百年史』)。福井県では、町村合併促進法の失効する九月三〇日には、岡保村と東藤島村の二か村で藤岡村が新設され、また、石徹白村が脱落して上穴馬、下穴馬の二か村で和泉村が生まれた。そのほか、木部村が坂井村へ、味真野村が武生市へそれぞれ編入合併し、粟田部町が今立町と町名を変更したうえで岡本村を編入した。県は、五六年一〇月一日に残る一六か町村を未合併町村として、同日全面的に発効した「新市町村建設促進法」のもとで、その解決をはかることにした。

表100 市町村数(1953〜62年)

表100 市町村数(1953〜62年)



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