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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    四 労使関係の再編と労働運動
      労働行政の推進
 労働組合法・労働関係調整法にもとづく集団的労使関係の枠組みの確立とならんで、一九四七年(昭和二二)四月の「労働基準法」・「労働者災害補償保険法」の公布にはじまる個別的労使関係を規制する労働立法と労働者保護行政の拡充は、戦後労働改革のもう一つの大きな柱であった。
 戦時中の地方労働行政は警察部の管掌のもとにあったが、四五年一〇月に国民勤労動員署が勤労署に改められ、従来警察署の所轄であった第一線の労働行政がこれに移管されるとともに、労働行政事務は福井県では内務部(四六年二月)、ついで教育民生部(同年一一月)、さらに四七年九月の労働省発足後の四八年一月、経済部の管掌となった(「大正昭和福井県史 草稿」、県条例第二号)。中央では敗戦とともに労働行政は厚生省に一元化されていたが、四七年四月、労働省の新設を予定した労働行政機構の拡充がはかられた。まず、深刻な雇用情勢に対処して職業行政を強化するために、従来の勤労署と日雇勤労署が公共職業安定所に改められた。同時に勤労署が担当していた労政事務が新設の労政事務所に移管され、県下では福井、敦賀、武生、大野、三国、小浜の六か所に労政事務所が設置された。また労働基準法施行にともない、五月に福井労働基準局が、九月に福井、武生、敦賀、大野に労働基準監督署が設置された。
図40 月別労働基準法違反件数(1948年8月〜49年8月)

図40 月別労働基準法違反件数(1948年8月〜49年8月)

 労働基準局・労働基準監督署は発足当初から労働基準法の普及につとめたが、それは困難をきわめた。「月例報告書」によると、四八年八月から翌年八月までに、労働基準監督署は毎月一〇〇から三〇〇か所の工場を視察しているが、そのさいに摘発された労働基準法違反の件数は図40のとおりである。報告書は、県内には約五〇〇〇の視察をうけるべき工場があったことを指摘しているので、実際には、図40にみられる件数よりはるかに多い労働基準法違反があったと考えられる。違反の内容は安全・衛生、労働時間・休憩・休日、年少労働者に関するものが圧倒的に多いが、これは、県内の企業の大半を占める中小企業で、資金的制約から安全対策を怠ったり、生産目標達成のために過重な労働を従業員に課した経営者が多かったためである(山田泰弘「軍政部月例報告書よりみた福井県の労働情勢」『福井県史研究』8)。そもそも労働者、とりわけ基幹産業である紡織工業において八割を占める女子工場労働者においても、労働基準法の諸条項について十分周知されておらず、労使双方に対してその啓蒙・普及自体が重要な課題となっており、福井軍政部・県労政課とともに労働基準局・労働基準監督署は巡回指導、宣伝パンフレット配布、映画上映などにより精力的な啓蒙・普及活動を行った(『福井新聞』49・8・4)。



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