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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      ドッジ・ラインと統制の解除
 一九四八年(昭和二三)一二月一八日の経済安定九原則の指令とそれに続くドッジ・ラインの策定は、財政面での総需要抑制政策への転換による、国内・国際市場における市場メカニズムの機能回復を意図したものであった。ドッジ・ラインの効果はただちに現われ、四八年夏以来安定傾向を示していた物価は四九年はじめより顕著な下落をみせ、ヤミ物価の公定価格への接近は統制解除への道筋をつけるものとなった。
 四九年五月に誕生した通産省は、五月二五日の「繊維統制整理簡素化要綱」の閣議決定にともない、逐次、資材割当や衣料品配給の品目指定を解除して自由販売を認めた。福井県繊維産業に関連する品目のみあげると、六月一日の絹製品の「衣料品配給規則」からの解除を皮切りに、七月一日には生糸・特定の絹人絹交織物・メリヤスが、また一〇月二五日には人絹糸・人絹織物が指定生産資材からはずされ、一一月二一日に人絹製品が衣料品配給からはずされた。その後、毛・スフ等が次々と統制から離れ、五〇年五月六日、「指定繊維資材配給規則」が廃止された。この間四九年八月には登録商制度も緩和され、流通業界も自由競争の基盤がつくられた(『商工政策史』16)。
 また商工省の指示で県内の統制の下請事務を行っていた県織工組では、震災復旧対策をめぐって内部で発生した組合員間の不和や、一部幹部の専横に対する不満が慢性化していたが、四九年四月に中小企業者の事業活動の強化を目的とした中小企業等協同組合法案が国会に上程され(六月一日公布)、また時を同じくして「第二織配事件」が発覚すると、地区別協同組合設立の動きが強まり、六月二六日、県織工組は解散し、地区組合九件と大規模工場による事業者団体二件が結成された(表81)。なお、県下をおおう繊維業界団体としては、四四年七月の県織物同業組合の解散後、その後継団体として県織物協会が織物消費税の徴収事務などを行っていた。県織工組の解散にともない、繊維業界を一体化した団体の強化が叫ばれるようになり、五〇年一〇月二〇日、福井県繊維協会が設立され、一二月二二日、会長に前田栄雄(製造)、副会長に黒川誠三郎(加工)、酒井伊三男(商業)が各部門代表のかたちで選出された。

表81 地区組合、事業団体

表81 地区組合、事業団体
 ちなみに右にふれた「第二織配事件」とは、四月二七日敦賀郡粟野村金山検問所で取り押えられたトラックの荷主の手帳から芋ヅル式に発覚した県織工組、県衣料製品工業協組幹部の織物横流し事件である。この時に横流しされた織物のなかには、さきに述べた「第一織配事件」のさいの押収物件の返却品や県繊維製品処理委員会により買い上げられた「昭和二一年度臨時生産人絹織物」なども含まれていたといわれる。この事件にからむ捜査の手は小幡知事をはじめ県庁幹部の収賄容疑にまでおよび、五月末には県経済部長の逮捕、繊維課幹部の書類送検という事態にいたった。しかし六月に入り、福井地方検察庁は最高検察庁との打合せのうえで、経済部長の起訴およびこれ以上の事件の追及は福井の復興のためよろしくない、として関係者各位の自省を促すことで事件は終息をみた(『見聞』49・7、『朝日新聞』49・5・26、6・5、17)。



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