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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    二 農林水産諸団体の民主化
      漁業生産の歩み
 一九四五年(昭和二〇)九月一四日、総司令部により「木造船のみ日本沿岸一二海里以内での操業」が認められ、戦後の漁業ははじまった。その後日本が独立を達成するまで徐々に、操業許可区域(いわゆるマッカーサー・ライン)は拡大され、日本の沖合・遠洋漁業は著しい発展をみせることになる。
 福井県における漁業の復興は、漁業用資材不足にかかわらず早かった。四五年には一〇〇万貫に落ちこんだ漁獲高は、四六年に五八八万貫、四七年に六六九万貫と、早くも戦前の水準を回復した(『県統計書』)。すばやい回復の要因としては、本県の発動漁船は小型が大半を占め、戦争に徴用された中・大型漁船はごく少数であり生産体制の再開が容易であったこと、無動力船でも行える定置網漁業が好調であったこと、機船底曳網漁船の許可枠が大幅に緩和されたこと、などがあげられる。
 昭和二〇年代前半、福井県漁業の花形となったのは巾着網漁業(まき網漁業の一種)である。巾着網漁業は明治三〇年代に若狭地域に導入された近代的漁法で、サバの大量漁獲に最適であった。戦後の数年間、若狭湾は日本有数のサバ漁場となり、巾着網漁業の隆盛をもたらした。福井県の巾着網漁業操業統数は一九四二年から四五年まで一六統(巾着網漁業の中心であった「二艘廻し」の場合、一統は二隻の網船と手船・運搬船から成り立っていた)であったのが、四六年に一八統、四七年に二七統、四八年に三五統、四九年に三九統に急増した(『若狭湾に於ける鯖巾着網漁業』)。サバ漁獲高は、四七年には約二三〇万貫(全漁獲高の三四・四%)、四八年には約一九五万貫(同二四・七%)、四九年には約三三三万貫(同四五・九%)、五〇年には約二四一万貫(同三九・九%)に達している(『県統計書』)。
 巾着網漁業は主として嶺南地方の漁民によって担われ、その経営の大半は共同経営または漁業会(漁業協同組合)自営であり、ほかに小浜港を基地として大洋漁業株式会社の所属の漁船が操業に加わっていた。「春サバが大量に漁獲され、積み出しの貨車が不足する」(『福井新聞』48・2・24)ほどに隆盛を誇った若狭湾での巾着網漁業は、五一年以降不振に陥りサバの漁獲高は激減していくことになる。その打開策として操業統数の削減が行われる一方、五一年から県外出漁がはじまった。小樽を根拠地とした北海道石狩湾への出漁は、数年にわたって行われた。また、新潟県両津を根拠地とした佐渡島付近での操業、鳥取県境港を根拠地とした山陰海域への出漁も行われたが、サバ巾着網漁業の不振を挽回するだけの漁獲をあげることはできなかった。
写真60 小浜漁港(1950年ころ)

写真60 小浜漁港(1950年ころ)

 サバ巾着網漁業に代わり、五三年から数年間福井県漁業を支えたのが、火光利用のイワシ巾着網漁業と深瀬網漁業(最初は敷網漁業であったものが改良され、巾着網類似のまき網漁業となったもの)である。両漁法は最初、試験操業というかたちで例外的に認められた漁法であったが、イワシ漁獲にきわめて有効であることが実証された。その結果、五四年一二月に「福井県漁業調整規則」(五一年一〇月制定)の第三五条「集魚を目的として火光を利用する網漁業は、営んではならない」とある条文は削除され、火光利用の網漁業は許可漁業となった。これ以後火光利用のイワシ巾着網・深瀬網漁業は急速に発展していった。既存のサバ巾着網漁業からの転換、丹生郡を中心とした嶺北地方の各漁業組合による深瀬網漁業の自営によって、操業統数は五四年に二〇統となり、さらに操業希望が続出したため許可枠を拡大するかどうかが、連合海区(若狭・越前両海区の連合体)漁業調整委員会の重要検討事項となるほどであった。両漁業の隆盛により、サバに代わってイワシが本県漁獲高の首位を占めることになった。五五年三月下旬から一二月上旬のまき網漁業漁獲高は約二八九万貫になっている(『福井新聞』56・1・14)。しかし、五五年をピークにして火光利用のまき網漁業は巾着網漁業がたどったように、急速な漁獲高の減少をみ、漁業転換の必要性に迫られることになっていく。
 まき網漁業が不振をきわめるなかで、昭和四〇年代に入るとイカ釣漁業が、底曳網漁業・定置網漁業と並ぶあるいはこれを凌駕する、福井県の主要漁業に成長していった。イカ釣漁業は、昭和三〇年代まで、小型底曳網漁船が春から夏の底曳網禁止期間に、沿岸海域で副次的に営んできた漁業であった。しかし、日本海中部海域に位置する大和堆・北大和堆がイカ釣漁場として開拓された結果、沖合イカ釣漁業は一躍脚光を浴びることになり、周年操業の可能な沖合漁業の基幹漁業に成長していった。大和堆・北大和堆を主要漁場としながら、イカ群の回遊を追いかけて南は福岡県沖から、北は北海道沖・サハリン南西部海域まで操業範囲を拡大するためには、漁船の大型化が必須条件となり、イカ釣漁業を中心に昭和四〇年代なかば以降福井県の漁船の大型化は急速に進行していった。一九五八年に、三〇トン以上一〇〇トン未満の漁船は二三隻、一〇〇トン以上の船はゼロであったのが、七四年には、それぞれ五八隻・一九隻に増加している(『福井県水産累年統計』)。イカの年間漁獲高は、七〇年から七六年までは一万トン(約二六七万貫)前後で推移し、県総漁獲高の三分の一から四分の一を占めるにいたった。
 戦後漸減傾向を示しながらも、比較的安定した漁獲高を保ってきたのは底曳網漁業である。底曳網漁業は、沿岸海域で操業する小型底曳網漁業と沖合底曳網漁業に分類されるが、沖合底曳網漁業の中心的漁獲物はズワイガニ(セイコガニも含む)であった。福井県を代表する魚介類として知名度の高いズワイガニは、昭和三〇年代には一五〇〇トン前後水揚げされていたが、その後漁獲高は激減し、六九年には六八〇トン、七四年には四五三トンに落ち込み、以後も漸減していくことになる。ズワイガニ漁業の急速な不振のなかで沖合底曳網漁業を支えることになったのは、ホッコクアカエビ(アマエビ)の漁獲であった(『福井県水産累年統計』)。



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