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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    二 地方行財政機構の改編
      町内会・部落会の解体と再生
 占領改革により大きな影響をうけた行政機構として町内会・部落会について語らねばならない。戦前の日本の行政機構のうえでは、町内会・部落会・衛生組合などのなかば自発的な地域組織が地方行政の最末端に位置づけられていた。とくに総動員体制がとられてからは、こうした地域団体は総力戦を担う行政末端機構として機能した。そうであるがゆえに、総司令部は、町内会・部落会等を、地方民主化の大きな障害と考えていた。
 一九四五年(昭和二〇)一一月四日の最高司令官指令第二三六号(SCAPIN236)により、町内会・部落会に関する詳細な報告書の提出が政府に求められた(『戦後自治史』1)。内務大臣の罷免につながった自由の指令のちょうど一か月後のこの指令は、追放の措置が町内会・部落会のレベルにまで及ぶことを予感させるものであった。さらには四六年一〇月一六日には総司令部民政局は、ティルトン中佐の名前で「封建的半官組織の廃止について」をまとめている。
 四七年一月四日には、町内会長、部落会長などについてはまず、公選で選ぶこと、戦前から引き続きその職にあったものは一定期間被選挙権を持たないことを定めた(勅令第四号)。さらに、これらの地域組織を残して民主化の方途を探る動きもあったが、結局はこれを一歩進めて同月二二日には、町内会・部落会を国の行政機関の末端に組み込むことを定めた四〇年内務省訓令第一七号を廃止し、四月一日を期限に町内会・部落会を解散することに踏み切ったのである(内務省訓令第四号)。これに応じて福井県では、従来の連合町内会・部落会の事務所を利用し、連合町内会・区単位に出張所をおくとする通知を出していた(資12下 三六)。ここでは従来の町内会・部落会の長を職員に委嘱することはできないとされていたが、大野郡下庄村にみられるように再任が可能とする通知も出回っていた(資12下 三七)。
 このように国民生活のなかに深く根ざした町内会を廃止するのに訓令の廃止を通牒するだけでは不十分とみた民政局のティルトンやリードは政府に対し、きびしい罰則規定を含む立法措置を求めてきたので、四七年五月二日、町内会・部落会の廃止を決めた政令一五号が閣議決定された。これは翌五月三日、憲法の施行と同時に公布、即日施行された。施行に関する次官通牒が各地方長官あてに発せられたのは五月一四日になっていた。ここまで遅れたのは町内会・部落会の廃止による行政末端機関の善後措置について民政局と内務省の間で意見の隔たりがあったからである。民政局は代替措置としての駐在員、出張所を設けるとしても一か所の受持ちは人口一万五〇〇〇人もしくは面積四平方キロメートル以下ではならないとした。結局この点については内務省は民政局に押し切られている(資12下 三八)。
 このような経緯で、町内会・部落会は制度的には廃止されたが、実質的には政令一五号施行直後から、市町村との連絡を代替する機関がおかれ、ほとんど従来どおりの町内会・部落会が維持されたと思われる。たとえば、さきの大野郡下庄村では、翌月の六月に「役場連絡員」の名称で「当分従来の通り役場と連絡及区民への御通達等を願ふ」ことを通知しており、小浜町でも「外務員」という名称で同様な機関が設置されていた(資12下 四一)。これらの連絡員などの業務は、戦後の混乱期にあたり供出・配給・衛生・納税などますます煩雑になっており、こうした事態に対応する地域組織を事実上廃止することはできなかったといえよう。



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