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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    二 占領下の県民生活
      復員・引揚げ
 敗戦当時海外にいた日本人の推定総数は六六〇万人あまりといわれ(厚生省援護局『引揚げと援護三十年の歩み』)、それら多くの人びとの復員・引揚げが敗戦とともにはじまった。福井県関係の軍人軍属の詳細については、種々データが異なり明らかではないが、一九四八年(昭和二三)六月の「世話課報」によれば、敗戦時の陸海軍出征軍人軍属総数は八万三〇〇〇人あまりとされている(旧平泉寺村役場文書)。国内にいた軍人は召集解除・除隊というかたちで四五年九月から一一月にかけて逐次帰郷したが、海外にいた軍人の引揚げについては同年一二月に復員省の地方庁として設置された福井地方世話部と舞鶴地方復員局人事部福井支部がその業務にあたった(資12下 六)。
 福井県は、四七年八月に全県下の未復員調査を行った(資12下 九)。旧「満州」など「ソ連関係地域」と「南方関係」を中心に、いまだ八九〇〇人あまりが未復員であることが明らかとなり、同胞援護会福井県支部などを中心とする帰還促進運動が高まった。すでに四六年秋にはソ連関係地区からの帰還促進を求める全国的運動が展開されており、福井県でも同年一〇月には、福井・石川・滋賀県合同による「帰還促進北陸大会」が福井中学校で開催された。また民間でも福井市の高畠小三郎らを中心に、県内留守家族からマッカーサー司令官にあて、はがきによる嘆願運動も行われた(旧平泉寺村役場文書)。ようやく同年一二月にはソ連抑留者の復員がはじまったが、四七年一二月から四八年五月まではソ連側の「天候および海上結氷」との理由で中止され、さらに五〇年の朝鮮戦争勃発による再中止などもあって、この方面の復員は遅々として進まなかったのである。
 五〇年四月、戦犯者をのぞく日本人捕虜送還を完了したとのソ連政府声明は、いまだ三〇万人あまりの未帰還者がいるとの日本政府の見解とは大きくへだたり、わが国に大きな衝撃をあたえた。海外抑留同胞救出国民運動の全国的展開に呼応して、福井県においても、七月には県議会議長野村栄太郎を長として同地方本部を結成、抑留者の即時引揚げ、戦犯抑留者の氏名・訴因の発表などを強く求めた(旧平泉寺村役場文書)。復員・引揚げがいちおう終了したとされる五六年の『県統計書』によれば、海外より生還した軍人・軍属数は約二万八〇〇〇人あまりであった。
 国策により日本から移住した満州開拓移民団も、悲惨な境遇にあった。戦局の悪化にともない、成年団員の多くは現地召集をうけ、団に残る者は婦女子、老人がほとんどであった。敗戦による混乱のなか、親子兄弟が生別れになった事例も数多い。中国残留日本人孤児の問題は、戦後五〇年を迎えた現在においても、戦争の傷跡として大きな問題を残している。北安省徳都県南和村に入植した第九次徳安開拓団は、福井県下で編成された開拓団のうち最大の規模であったが、召集された者をのぞいた二三八人のうち一四五人あまりが死亡または生死不明となった(『満蒙開拓史 福井郷徳安開拓団史』)。
 一方、朝鮮出身者で日本軍として従軍していた者は二四万二〇〇〇人、同様に台湾出身の軍人軍属数は二〇万七〇〇〇人といわれている(厚生省援護局『引揚げと援護三十年の歩み』)。彼らをはじめ、戦時中日本に連行され炭鉱などで強制労働に従事していた人びとも、四三年のカイロ宣言にもとづき日本国籍から離れることになった。それぞれの祖国への帰国は、総司令部の強い指導のもとにすすめられ、福井県でも、帰還希望者に対し四六年五月から七月までの間に七〇〇〇人あまりを団体帰還させる計画がたてられた。帰国希望者については市町村ごとに登録され、県より帰還日が指定された。しかし、持帰り荷物の制限や、帰国しても生活のめどが立たないなどの事情から、指定日時に出発できず帰国特権を失い、祖国への帰還を果たせなかった人びとも多かった(資12下 七、八、旧内外海村役場文書)。『県統計書』によれば、県内には五〇年末現在で、約六八〇〇人の「外国人」が登録されていた。



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