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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    一 農業統制と農業団体
      共同作業と勤労奉仕
 肥料などの農業生産資材の供給減少、および農村労働力の減少のもとで食糧生産を維持するためにとられた方策が、共同作業による労力調整である。福井県においては、農業用電動機が一九三一年(昭和六)一一四五台、三九年三二一三台、四七年九九九二台と、動力機の導入が比較的進んでいた(「大正昭和福井県史草稿」)。しかし、機械は脱穀・調製過程において利用されたもので、耕種作業は従来のように人力か畜力に依存していた。そのため、稲作労働は、田植期の六月と収穫期の一〇月のピーク時には反あたり三日から五日強も必要としており(『昭和弐年拾月農業経営調査書』1)、しかも適期性が要求されるから平均水稲作付規模(七反余)でも家族労働だけでは不足するほどであった。一方、三七年から三九年の召集人数は一万五、六〇〇〇人であったから、戦時初期には県下農家数のほぼ四戸に一戸から、敗戦時の召集人数は約七万八〇〇〇人であったから戦時末期にはほぼすべての農家から、青壮年の労働力が召集されたことになる(『大正昭和福井県史』下)。このような大量の農村労働力の減退は、当然のことながら家族労働だけでは稲作が維持できないことを意味する。
 しかし労働力の不足は、耕作放棄に直接結びついたわけではなかった。三九年に県が調査した結果によれば、労働力不足により返還された小作地は三〇〇戸、八〇町四反であり、うち応召を原因とするものが七割、舞鶴方面の鉱工業への転出を原因とするものが三割であった(『福井新聞』39・6・27)。しかし、他県でみられた労働力不足による耕作放棄地はなく、表55にみるように戦時末期まで米麦の作付面積は、むしろ増大している。
 労働力不足にもかかわらず、米麦の作付面積を維持・増大させたのは、勤労奉仕や共同作業の推進であり、青少年の動員であった。ただし付言するならば、共同作業の推進は労働力の減少への生産力的対応を目的とするものだけではない。『福井県農会報』(38・5)によれば、水稲作に関する共同作業は採種、育苗、選種、挿秧、除草、刈取、籾摺、精米などすべてが含まれており、その効果として、労力の節約や規模の有利性の発揮のほか、共同精神の訓練、ある事項の普及徹底、生産技術の均等化による品質改善や収量の維持増進などがあげられている。つまり、共同作業の効果は精神的な側面にも重点がおかれていた。
 戦時初期の労働力対策は、国の通牒にもとづいた県・市町村の経済更生委員会の指導によって勤労奉仕班を編成したこと、および農村対策促進協議会の決議にもとづき農会を通じて共同作業の励行を指導したことにはじまる。三九年にはおおよそ四〇〇から五〇〇の農家組合が共同作業を実施し、労力を二、三割程度節約できたという(『福井新聞』39・9・27)。しかし労働力対策が本格化するのは、農林計画委員会の答申にもとづいて三九年八月一日に実施された「労力調査」以降である。労力調査は、町村内での労働力の自給自足を建て前として労働力の円滑な需給を計画的に行い、他産業にも労働力を計画的に配置することを目的として、以後毎年実施された。労力調査の結果を利用して、労働力不足に対応した農繁期の労働計画と肥料不足に対応した緑肥増産計画などが樹立され、実行された。なお同時に共同炊事・共同託児所なども共同作業の効果を高めるものとして推進され、四二年には福井県下約一九〇〇集落のうち、共同作業は一〇七一集落、共同炊事は一八二集落、共同託児所は五四九か所で実施された(資12上 一六七)。
写真35 農繁期の共同託児所

写真35 農繁期の共同託児所

 戦時中期になると応召による労働力不足は深刻化し、四一年一一月二一日に県は、中等学校長・青年学校長・国民学校長あての通牒「緊急増産施設ニ関スル労働対策ノ件」を発した。本通牒は、「目下農繁期ニ於ケル農村労力事情ニ鑑ミ青少年学徒ノ集団勤労作業ニ依ル労力補給ハ極メテ緊要ノ事ト被存候……学業ニ支障ナキ限リコレガ趣旨徹底上ニ協力相成度」というものであり、農繁期には休校にして青少年学徒を農作業への勤労奉仕にあてるものであった。以後、同様の通牒が農繁期には出され、四三年一月には藁工品の全国的な生産減少に対応して放課後や家庭で藁工品を学徒に製作させる通牒「藁工品増産ニ対シ青年学校生徒竝ニ国民学校児童協力ニ関スル件」まで出されるなど、ますます勤労奉仕は強化されていった。



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