第六三議会において農民救済策としての満州農民移民政策が具体化され、一九三六年(昭和一一)八月には「二〇個年百万戸五百万人送出計画」が樹立されて国策として本格化し、三八年には分村計画が経済更生計画の一環とされ、また一五歳以上の少年を対象とする満蒙開拓青少年義勇軍も組織されるなどの政策が進められ、敗戦までに三三万人が「食糧増産」「五族協和」を旗印に入植した。しかし、初期の移民が在郷軍人を主体とする集団武装移民の形態をとったように、満州国の治安維持と対ソ国境警備の役目を負わされたものであり、町村長、小学校長、農業会などの強い指導のもとに募集され、応召者並の扱いで送り出された。福井県でも、三二年の第一次弥栄開拓団送出から、四五年六月の青少年義勇隊郷土部隊伊藤中隊まで、満州開拓団(一七か所)、満蒙開拓青少年義勇軍(一八か所)、報国農場(二か所)など四二〇〇余名が送出された(図32)。分村計画は福井県でも三方郡八村、南条郡宅良村などを選んで進められたが、単独村での送出に無理があったことから、実際には該当の郡ならびに隣接郡を送出母体とする分郷開拓団が結成された。興亜(三方郡)、徳安(南条郡)、音河坂井(坂井郡)九頭竜(大野郡)などがこれにあたる。 |