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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    四 戦時下の学校
      国民学校の成立
 教育審議会が答申した国民学校改革案は、一九四一年(昭和一六)三月一日「国民学校令」および「国民学校令施行規則」に結実し、ここに旧来の小学校制度は国民学校制度に改革された。同年三月二九日の橋田邦彦文部大臣による「国民学校令並ニ国民学校令施行規則ノ要旨」には、「東亜及世界ニ於ケル皇国ノ歴史的使命ニ鑑ミテ我ガ国独自ノ教育体制ヲ確立センコトヲ期シココニ国民全体ニ対スル基礎教育ヲ拡充整備シテ名実共ニ国民教育ノ面目ヲ一新シ克ク皇国ノ負荷ニ任ズベキ国民ノ基礎的錬成ヲ完ウシ将来ニ於ケル学制ノ根底タラシメントス」という国民学校の基本的役割が示されていた(文部省訓令第九号)。具体的な改革点は(1)義務教育年限を八年に延長し、国民学校の課程を初等科六年、高等科二年としたこと、国民学校高等科第二学年を修了した者のために修業年限一年の特修科をおくことができること、就学義務の徹底、国民学校職員の組織待遇の改善であった。教育内容の改革をみると、国民学校令第四条の「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」をふまえて、教科として国民科・理数科・体錬科・芸能科をおき、高等科はさらに実業科を加えるとした。国民科は従来の修身・国語・国史および地理、理数科は算数および理科、体錬科は体操および武道、芸能科は音楽・習字・図画および工作、実業科は農業・工業・商業・水産である。三月三一日久保田外字知事は福井県訓令第一一号で、皇国民の錬成を目的にした国民学校の成立を通達し、教育には教師に有為なる人材を得るかどうかにかかっていることを強調していた。
 国民学校での実際の教育はどのようになっていたのであろうか。教科書については新しい教科である国民科・理数科・芸能科などのために急いで第五期国定教科書が作成され、四一年度には初等科一・二年用、次年度には三・四年用、ついで五・六年用という順番で約四年間で高等科もいれた八年間分の教科書が完成されることとなった。福井師範学校附属国民学校の四一年度の記録には、新発行の教科書(初等科一・二年)の教師用書の研究により、教科教授の刷新をはかったという記述がある(『沿革略誌』)。
 福井市の豊国民学校は、「国民学校の本旨を体し心身を修練して、皇国臣民たるの大信念を養い、気宇雄大・強力なる世界的の大皇国民を育成して、皇運を扶翼し奉るべき基礎的錬成をなす」という学校としての姿勢を示し、皇国のために身命を捧げて励みます、気ままな行をつつしみます、作業で心身をみがきます、強い体にきたえます、という四つの「心の誓」を掲げていた(『福井市豊小学校百年史』)。
 大野郡上庄村の上庄国民学校では四三年一一月に研究指定校の研究発表を行った。研究授業では、初等科五年男子の体操(前転)と高等科二年女子の理科(国防と耳・眼)が実施されたが、いずれも教育内容を戦時体制に関連づけて教えられていた。つまり前者の体操で教師は「今日戦争勝敗の大半を決している空軍の目覚ましい活躍や、或は敵の背後を奇襲してその心胆を寒からしめている落下傘部隊など、この沈着にして勇猛果敢なる精神及びその巧緻軽妙なる動作の裏付をなすものが此の前転運動の錬成であることを思ふとき、まことに本教材の指導に楽しみを感ずる」と記していた。また理科では「耳が国防上極めて重要なることは今更喋々を要しない。第一線に活躍の斥候歩哨が正しい聴力を必要とし、銃後に於て敵機の爆音の早期感知を必要とするが如きことは如何に聴力が国防上大切であるかを如実に物語るものである」というように、国家の戦時教育・皇国民錬成のために国民学校あげて取り組んでいるようすがみてとれる(大橋庄衛家文書)。



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