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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    三 戦時下の衛生・社会行政
      療養所・保健所・託児所
 県内の結核専門の医療機関としては、一九三八年(昭和一三)一二月、坂井郡北潟村に県立結核療養所北潟臨湖園が設置された(県告示第六三五号)。この結核病床数はわずか一三七床(三九年五月)であり、四一年一〇月で敦賀病院・小浜病院付属の療養所をあわせても二九〇床であった。これは年間一五〇〇人に達していた県内結核死亡者数にはるかにおよばず、四三年六月に北陸三県が結核予防特別地区に指定された時点で四九三床を一一四三床に増設する計画がたてられた。なお、結核疾患の傷痍軍人のための施設としては、三九年六月に福井療養所が三方郡八村に開設された(福井県『結核の予防』、『福井新聞』34・6・2)。
 三七年四月に「保健所法」が公布されると、結核予防をその重要な業務とする保健所が県内各地に設置された。福井県では翌年七月の丹生郡朝日保健所をはじめとして、三九年七月に勝山、四二年一一月に武生が開設され、四五年七月までに県内で一四の保健所が設置された。
 勝山保健所では、四〇年八月に大野郡勝山町と村岡・野向・荒土村が、結核予防会の指定した全国の結核予防模範地区一〇地区の一つとして指定されると、保健所を中心にX線撮影を導入した工場従業員や学童に対する健康診断や精密検診の実施、窓の設置や開閉の奨励、「万年床」の解消などの生活改善指導を積極的に行った。結核の有効な治療法としては、一九五〇年以降ストレプトマイシンによる化学療法が社会保険の対象となり一般の病院で容易に利用できるようになって画期的に効果をあげることになるのだが、これ以前のこうした生活改善を含めた結核予防活動の蓄積が、その後の結核の減少を促進したことは疑いない(『勝山市史』通史編3、福井県保健所長会『半世紀のあゆみ』)。
 また、昭和期に入ると府県にも栄養に関する専門職員が設置されるようになり、福井県では三六年にはじめて県に栄養技手がおかれた。三八年には「銃後県民の体位向上」のため、白米食の廃止、煮干粉の廉価配給、たんぱく質欠乏を補うための養鶏・養鯉などの奨励、タニシ・イナゴ・ドジョウの食用、さらに工場や農繁期における農家の共同炊事が奨励された。朝日保健所の指導で新横江村が四一年に発行した献立例では、たんぱく質の不足を補うためにきな粉とだし雑魚を多用し、七分つき米の使用と複数の献立の循環によってかたよりのない献立を呼びかけていた(斉藤堅三家文書)。もちろん、こうした食生活の改善が広く一般家庭に取り入れられるのは戦後のことではあるが、「銃後県民の体位向上」のためにこの時期に栄養学的な指導も導入されていた。なお、共同炊事場については、三九年に設備費の二分の一以内を補助する共同炊事場設置費補助規程が定められた(『大阪朝日新聞』38・8・26、県令第二五号)。

表50 女性労働者と乳幼児の保育

表50 女性労働者と乳幼児の保育
 また、乳幼児保護については、人絹織物業の隆盛のなかで乳幼児をつれて織物業に従事する女性労働のあり方が問題視された。三五年の県社会課の調査(表50)では、工場などの労働現場に女性労働者が連れている学齢未満の乳幼児は一二九八人にのぼり、三八年の『工場監督年報』では織物業で一七二七人を数えていた。
 これに対して県は工場主(困難な場合は市町村)による保育所の設置を通牒したが、予算措置はともなわず、これによって保育所を設置したものは坂井郡工場協会などわずかにとどまっていた。このため県では三九年に「工場及原動機取締規則」を改正し(県令第三三号)、六歳未満の乳幼児を工場内に「携行」することを禁止した。同様な理由から、また男子労働力不足を補ううえでも農村での農繁期託児所の設置も奨められ、三六年春期で五一か所、三九年度には寺院や小学校内を中心に一三四か所に農繁期託児所が設けられていた(『大阪朝日新聞』36・9・6、『福井県社会事業要覧』四〇年)。
 さらに三九年度から県下のすべての乳幼児を対象とした健康診断が行われた(『大阪朝日新聞』39・9・17)。四二年二月からは全国的にも乳幼児に体力手帳が交付され、一斉検診が義務づけられた。これは、青少年男子の体力検査(身体検査・健康診断)を義務づけた四〇年の「国民体力法」の改正によるもので、四二年七月からは「妊産婦手帳規程」により体力の国家管理は妊産婦にも拡大された。すでに前年の四一年一月には「一夫婦の出生数平均五児」を目標とした「人口政策確立要綱」が閣議決定されており、これとともに同年七月にはドイツの遺伝病子孫防止法にならって「民族素質の向上」のために「国民優生法」が施行された。
 このように保健衛生施策は、三五年以降合理的な生活改善や各種施設の整備をともなって急速に進展するが、それは同時に戦争遂行のための健康な県民の養成をめざしたものであった。



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