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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      労働同志会の変質と政党支部の解散
 全国農民組合福井県連合会は、あいつぐ弾圧と内部分裂のため、一九三八年(昭和一三)ころには、ほぼ組織的運動を停止していた。また、福井県の労働運動を主導してきた福井県労働同志会は、三五年一一月には会名を福井県勤労同志会に変更し、新綱領は日本精神の発揚と国家観念の涵養をうたうことになる。さらに、この第一一回代表者会議に先立って、国体明徴運動の急先鋒であった菊池武夫貴族院議員の講演があったことに象徴されるように、同会は運動方針を転換して国家主義に傾斜していくなか、社大党との結びつきを強めていく。それは、会員三〇〇〇名以上をようする同会が、国家体制に同調し、地域政治のなかに影響力を行使しようとする過程でもあった。斎木重一会長は、三三年四月福井市会議員に初当選(以後三七年、四二年と連続当選)し、また県議選でも三九年四月の補欠選挙と九月の定期改選に当選した。勤労同志会顧問の弁護士土屋四郎吉が東方会に接近し、福井市内における支持層を拡大していたことが、斎木の県議当選を可能にしていた(資12上 「解説」、『福井勤労新聞』35・12・15、『福井評論』39・12)。
 同年二月に社大党と東方会の合同方針が出されると、県下各支部は全面支持の方針を打ち出した。また、斎木は三九年末の通常県会において、農地委員や物価調査委員に小作人や労働者を任命せよと主張するとともに、政友会や民政党議員が反対する農民道場設置に満州移民奨励の見地から積極的に賛成し、議案を通過させていた(『大阪朝日新聞』39・12・8)。
 四〇年五月のドイツのヨーロッパ西部戦線での電撃的勝利により急速に盛り上がった新体制運動(政党の離合集散による新党運動ではないとしてこう呼んだ)は、その担い手と目されていた近衛文磨が、六月に枢密院議長を辞職(七月二二日に第二次近衛内閣成立)すると、「行き先の無いバス」であるにもかかわらず、日中戦争の泥沼化による政治の閉塞状況を打破するものとして、国民各層に異常ともいえる期待をもって迎えられた。各政党もバスに乗り遅れまいとして、自らの解党・解散を急ぐことになり、こうした状況に政党として最初に対応したのが、社大党(七月六日解党)であった。県下においても社大党県支部長であった斎木が、県支部の解散とともに、「県会一丸論」を唱え、もっとも積極的に新体制運動に加担した。八月二八日の近衛首相による「新体制声明」に対する斎木のつぎの談話が、当時の歴史的潮流をよく示している(『大阪朝日新聞』40・8・30)。
  われわれ大衆は強力な国民組織を作り出すためには、今後どうなるかなどと心配した
  り逡巡することなく、時局を認識して愛国の情を迸しらせ、旧殻を投げ棄てて丸裸で新
  しいルツボに飛び込めばよいのだ、生まれることに躊躇せず協力すればよいのだ、そ
  の後のことはその後に考えるし、全国民の心が帰一すれば自然に途は開かれる、私
  の県会一丸論提唱も「まづ帰一せよ」との叫びにほかならぬ
 このような動きのなかで、中央では社大党に続き、七月一六日に政友会正統派(久原派)が解党、二五日には民政党の永井柳太郎ほか三五人が新党参加のため脱党し、三〇日には政友会革新派(中島派)が解党した。そして、当初新党運動に批判的であった民政党が八月一五日に解散するにおよんで東方会(一〇月二二日解散)をのぞくおもな政党はすべて解党することになり、近衛の提唱した新体制運動は、第一段階の目的を達することになった。
 県下においても、民政党の斎藤直橘が永井に従って脱党し、八月はじめに永井を後援する太陽会が福井市会議員を中心に結成され、斎藤が会長となった。民政党支部も斎藤派と添田(敬一郎)派に実質的に分かれており、同支部が八月二三日に解散式を挙行し、連絡団体として興亜倶楽部を残したが、斎藤派は排除することになった。一方、県会で多数派を形成していた政友会は、県政同志会の存続をはかろうとし、猪野毛派(久原派)、池田派(中島派)とも中央の動きには敏感に反応せず、ようやく九月二〇日に解散届を提出した(『大阪朝日新聞』40・8・2、10、24、9・21)。



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