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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
    三 民衆娯楽の普及
      新しいメディア・ラジオ
 映画にやや遅れて、昭和期に入って急速に広がってくる新しい民衆娯楽にラジオをあげることができよう。ラジオ放送が日本で開始されたのは、一九二五年(大正一四)三月であり、同年七月には東海・北陸地方を所轄する名古屋放送局が開局された。当初、福井市のラジオ聴取は翌二六年一月でわずかに二五件であり、受信状態も悪く、名古屋や大阪放送局からの放送は「往々雑音が混入」する状態であった(『福井新聞』26・1・16)。
 しかし、電灯線から電源をとるエリミネーター(交流)式の受信機が普及しはじめると、屋外アンテナが不用となり、スピーカーの進歩も加わって、ラジオは家族で聴けるものになってくる。三〇年(昭和五)四月の金沢放送局の開局によって、福井市でも真空管二球の低廉な受信機で聴こえるようになった(『福井新聞』30・6・19)。さらに、三一年九月の柳条湖事件の勃発が、放送中のラジオ体操を中断して「臨時ニュース」で伝えられると、戦況への関心から聴取申込みが増加した。福井県では二九年八月に一三五五件であったラジオ聴取が、三二年七月には四二二四件となり、都市部の世帯(福井市で九%)を中心にラジオが普及してきた(日本放送協会『放送五十年史』、『福井新聞』29・8・26、32・8・4)。
 三三年七月一三日、福井放送局(JOFG)が開局し、これを機に県内のラジオ聴取は急増し、翌月には六九一一件となった。開局式のようすは全国に中継放送され、開局記念週間として一三日から一九日まで福井放送局製作番組を含んだ特別番組が組まれた。ここでは、気象通報、公設市場物価、料理献立(福井高女)など、その後も継続されていく地域の生活情報のほか、人形浄瑠璃、浪花節、福井地方の芸妓連による常盤津・清元・民謡とともに・丸岡ローレル楽団による管弦楽・だるま屋少女歌劇の童話劇「人絹時代」などが放送された(『福井新聞』33・7・13〜19、8・6)。
 さらに、この開局記念週間を上回る規模で取り組まれたのは、同年一〇月の陸軍大演習時の特別番組であった。すでに八月の関東防空大演習では、飛行機からの実況中継を含めた大規模な報道がなされており、福井放送局でも名古屋や金沢の放送局の応援をうけて、自動車・騎馬・飛行機による移動班を組織し、演習の各局面を全国へ中継した。あわせて陸軍大臣をはじめとした演習参加の高官の講演、民謡やラジオドラマ「軍国日本」なども放送され、演習を盛り上げた。
写真16 陸軍大演習時の馬上ラジオ放送

写真16 陸軍大演習時の馬上ラジオ放送

 このような、かろうじて地方放送局によって保持されていた番組編成すら、翌三四年の日本放送協会の組織改編と、放送編成会の設置による全国中継番組編成の一元化によって、困難なものとなり、ラジオは国家的な施策へ人びとの日常意識を動員するメディアとしての性格を強めていった。



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