目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
     二 社会教育と県民教化
      青年訓練所から青年学校へ
 一九二六年(大正一五)四月、「青年訓練所令」によって、小学校や実業補習学校に青年訓練所が併設された。すでに前年から中等学校在学の男子に対して現役将校による軍事教練が実施されていたが、これに対して青年訓練所は、尋常小学校卒業以上の一六歳から二〇歳の男子を対象として軍事予備教育を行うことを目的としていた。年間二〇〇時間以上、教科の時間配分は、教練が半分を占め、残りは修身、公民、職業科、普通科であり、教練は在郷軍人、学科は大半が小学校教員が担当した。教練は現役将校の査閲をうけ、修了者には在営年限が短縮された(二七年の兵役法で六か月間の短縮が認められた)。
 訓練日や終始時間については、「土地ノ情況ニ応シ適宜」(二七年県告示第三三五号)とされており、たとえば今立郡岡本村の場合、毎月一日・一五日の午前八時から一二時までと毎週水・木曜日の夜間七時から九時(四年次には一〇時)までとされていた(旧岡本村役場文書)。
 二六年に県下に二〇七校設置された青年訓練所は、青年学校に統合される前年の三四年までほぼ同数を維持するが、当初、公立では小学校併設が八割(一六六校)、これ以外は実業補習学校に併置された。この実業補習学校自体その大半が小学校に併置されていたため、実業補習学校と青年訓練所は当初からその勤労青年を対象とする教育機関としての機能、経費、教員の負担の面で競合していた。このため、農業恐慌のなかで実業補習学校の後期に教練を課して青年訓練所に充当する学校が増加し、三二年には充当校は七〇校で全体の三分の一を占めた(『福井新聞』29・3・1、『県統計書』)。
 その出席状況は、概して都市部で低迷しており、二七年九月の福井市の青年訓練所の八月中の出席率は五四%、非常時が叫ばれる三四年にいたっても全県的に入所率(入所資格該当者中の入所者の割合)が九二%の好成績を示すなかで、福井市内の入所率はもっとも低く七六%であった(『福井新聞』27・9・12、34・5・29)。
 青年訓練所と実業補習学校との統合は早くから議論されていたが、文部省と陸軍省の間でその制度的な統合をめぐって意見の対立があり、三五年四月、「青年学校令」の公布によって、男女を対象とした青年学校が発足した。尋常小学校卒業を入学資格とする普通科(二年)、高等小学校卒業を入学資格とする本科(男子五年、女子三年で土地の状況により一年間短縮が可能)、研究科(一年以上)がおかれた。
写真13 御陵青年訓練所の閲兵式

写真13 御陵青年訓練所の閲兵式

 福井県では三五年四月、「青年学校施行細則」(県令第一二号)を定めた。これによれば本科男子の教練科の時間数は、五年間で四〇〇時間、教科全体に占める割合では三割五分であった。八月までに認可された青年学校数は二〇九校、年度末までに二一八校が設置された。有資格の専任教員はわずか一三〇名で、徐々に増加していくものの四一年度でも二四三名であった。これは青年学校全教員の二割にみたず、大多数は小学校教員の兼務であった。教練は青年訓練所と同様に在郷軍人があたり、現役将校による査閲も行われた。三六年には、青年学校長を対象に敦賀歩兵第一九連隊で三日間の訓練を行った(『大阪朝日新聞』36・12・9)。さらに三九年度には男子のみ義務制となった。



目次へ  前ページへ  次ページへ