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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
     二 社会教育と県民教化
      県連合青年団の設立
 第一次世界大戦後は、青年団に対して一九一五年(大正四)、一八年、二〇年と三次にわたって、内務・文部省共同の訓令が発せられ、青年教育・青年団体に対する国家的な関心が急速に高まっていった時期であった。これは、ドイツを中心とするヨーロッパ諸国での青年対策の影響をうけたもので、青年団は「国家活力の源泉」としての「青年修養ノ機関」として明確に位置づけられることになった(『明治以降教育制度発達史』6、7)。
 一方、徴兵年齢までの青年に対する軍事訓練の必要と、戦後の軍縮による余剰軍人の活用策から、二五年には中学校・師範学校・専門学校などに陸軍現役将校が配属され、教練の指導にあたることとなった。また勤労青年に対する軍事予備教育機関としては、二六年に青年訓練所が設置され、青年教育の軍事的編成が強められていく。ここでは、まず青年団への統制の具体策として県連合青年団の設立の経過をみていこう。
 全国的な連合青年団の組織化の動きは、二一年七月の全国都市青年団大会で「大日本連合青年団」の設立が可決されたことから本格的にはじまるが、内務・文部省が「時期尚早論」を唱えて反対し、全国組織が正式に発足したのは、四年後の二五年四月であった(平山和彦『青年集団史研究序説』下)。
 福井県における連合組織結成の動きは、大正中期の『福井新聞』が未発見のため正確に跡づけることはできないが、二三年の第一回の各郡市青年団の代表者会議では、足羽青年団から「官製青年団を廃し自治的に」県青年団連盟を結成することが提案されていた。この提案はこの時点では「時期尚早」として保留されたものの、その後翌二四年八月の第二回代表者会議で県青年団の結成が満場一致で可決された(『福井新聞』24・10・29)。
 時期を同じくして、県は皇太子行啓記念として県連合青年団の設立を提案したが、団員の年齢要件をめぐって、福井市青年会を中心に批判的な動きがみられた。福井市青年会は、「青年本来の自治的観念が漸次減却されんとしつゝあるは、団員又は代表中に二十五歳以上の官公吏或いは小学校長等を混入し居る弊害に起因する」との見解から、自治的性格の保持あるいは復活のために二五歳以下の「年齢制限」の厳守を主張したのだった(『福井新聞』25・2・4、7)。結局、創立代議員会による調整の結果、二五歳の年齢制限を理想として漸次その方針に沿って進むことで合意がなされ、二五年四月福井中学校講堂で福井県連合青年団発団式が行われた(『福井新聞』25・4・26)。
 この一〇日後、「青年団が赤くなる、県では方向転換策を」と題する記事が『福井新聞』に掲載され、県が、青年団体指導の方針を奉仕団体的なものに転換することが報じられた。ここでは「県下の青年団中に近来稍もすると抽象的議論に趨る」傾向があり、「此種の弊風を一掃すると共に不言実行的に奉仕的活動を為さしむる」ために、「青年団の公共的事業の実地指導に重きを置く」よう郡市長に近く通牒するとされた(『福井新聞』25・5・4)。これと時期を同じくして県は青年団体を担当とする専任係官を設け、女子青年の組織である処女会についても、郡連合会未設置の今立・丹生・遠敷郡に対して郡組織の設立をすすめ、翌二六年八月に県連合処女会を発足させた(『福井新聞』25・7・4、26・8・20)。
 さらに、「官製青年団」化に反対していた福井市青年会は、二六年一一月二三日の「青年日」(二〇年の皇太子による青年団への令旨を記念して設定)を期して解散した。かわって発足した福井市連合青年団の発団式では、「皇室中心主義の下に起ち、協力一致、向上発展」「国家社会に対する奉公犠牲の精神の涵養」をうたった「宣言」と「綱領」が出され、都市青年団のリベラルな雰囲気は一掃されることになった(『福井新聞』26・11・25)。



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