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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      農家機業の実態
 農村の零細機業については、経営に関する資料に乏しい。機業といっても、素人に等しい農家の手によるだけに、帳簿類をそろえるまでにもいたらなかったのであろうか。
 一九三九年(昭和一四)一月、東洋経済新報の記者が福井県の農村機業地の視察記を著している。視察した時期は、好況を過ぎて戦時統制が進行しつつあった三八年暮れのことであった。やや時期は遅いが、これをもとに、農家が副業的に経営する機業の実態をみてみよう(資12上 六八)。視察地は、県内でも規模の小さな機業が多いといわれた足羽郡下文殊村である。同村の機業戸数は六三戸で、うち農家による零細機業の範疇である織機一〇台以下のものが三一戸を数え、全体の約半数を占めていた。
 視察で訪れたのは、二軒の農家であった。一軒目の農家は、自作地二反・小作地六反の計八反を耕作する自小作農家で、家族構成は二世代の夫婦と、「娘」「少年」「赤ん坊」の七人からなっていた。藁葺き屋根の「どこの農村にも見られる普通の農家」であったが、母屋から続けて建増した一〇坪ばかりの機業場に半木製の織機が六台おかれていた。娘を含む女三人が「下拵」と「織工」を担い、男二人のうち「息子」の方が織機の「運転士」をつとめていた。また、男二人がおもに農業を担っていたが、記者の計算では、一年間農業に従事して手元に残る米は一三石で、これから自家の飯米をのぞいて七石を売り、二一〇円ほどの現金収入になったという。
 一方、機業の経営は、原糸代や電気代、建物・機械の償却分を差し引いた純益が、織機一台で一か月平均一〇円あまりとして、六台で六〇円から八〇円になったという。年収にすれば八〇〇円から九〇〇円ほどになり、農業に比べてはるかに高額な収入であった。しかし、従業員四人の月収にしてみると、一人あたり一五円から二〇円で、これは当時の機業女工の平均賃金と変わらない額であった。すなわち、たんなる「工賃」にすぎないということになるのである。この時期になって、農家の零細機業は、最低限の利潤のもとでの操業を余儀なくされていたのである。
 また二軒目の農家には、男・女二人ずつの家族四人のほかに、「半島(朝鮮)から連れて来て、年期で雇つて」いるという青年と、同じくおもに「半島からの年期の雇入れ」とされる女工が三、四人働いていた。雇用にいたるまでの経緯は明らかでないが、記者もまた、こうした農家の子女や朝鮮人の安価な労賃が零細機業の低コストを支えているとみている。また福井方面では、経営主自らが自転車に乗って原料の人絹糸を買いに行き、製品の織物を問屋に売りに行く機業を「自転車機屋」と呼ぶということが紹介されている。農村の零細機業も、それ以上に切り詰めた経営を強いられていたことが想像される。
 農業恐慌を契機にして、嶺北地方の多くの農家が飛びついた副業としての機業は、確かに一時的には相当の収入をもたらしたのであろう。しかし、わずかな期間の後には、ふたたびその活路を失いつつあった。そして、戦時統制の進展にともない、これら零細機業はまっさきに整理統合の対象とされていくことになったのである。



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