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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      海外移住
 嶺南の三方郡は、出稼ぎの一形態としての海外移住がさかんな地域であった。さきにみたような期間を区切ったサイクル形の出稼ぎとは異なり、目的地に長く滞在あるいは定住し、稼いだ金銭の一部を母国・郷里に送金するものであった。
 県社会課の調査によれば、一九三二年(昭和七)一〇月現在で、福井県出身の海外移住者は一五〇〇名あまりを数えた。図15にみられるように、「北米」が移住先のほぼ半数を占め、ついで「南米」が約三分の一を占めた。移住者の出身地を郡別にみると、図16のとおり、三方郡が約四〇%を占めていた。
図15 港外移住先(1932年)

図15 港外移住先(1932年)


図16 郡別海外移住者数(1932年)

図16 郡別海外移住者数(1932年)

 では、三方郡の状況をもう少しくわしくみてみよう。三一年一月、同郡からの海外在留者は、北米を中心にして男子九一二、女子五二二名の計一四三〇名あまりを数えた。そのうち、約三分の一にあたる四九〇余名から送金がなされ、その額はおよそ一一万円あまりであった(『大阪朝日新聞』31・1・25)。しかし、この額は前年の約半分にしかすぎず、翌三二年にはさらに八万円あまりにまで減少した。同年は、送金者の数も四五〇名に減り、アメリカ社会の不況が海外での出稼ぎに深刻な影響をおよぼしていたのである(『大阪朝日新聞』32・1・20)。
 三一年三月一日付の『大阪朝日新聞』福井版は、「あはれ都落」の見出しをつけて、国内外を問わず出稼者の多い三方郡で、帰村・帰農者がふえていることを報じた。不況の深化は、当然ながら都市における出稼ぎの雇用を減退させ、そして失業を余儀なくされた出稼者は、村に帰り家業に専念するしかなかった。農村・農家は、農業収入の減少を補うルートが閉ざされて、ふたたび過剰な人口・労働力を抱え込むことになったのである。こうした状況のもとに、三二年八月には、同郡耳村南市の住民一六九名が、渡米者からの送金が絶えたことや、土木事業の完了で就業の機会を失ったことなどを理由に、県知事に対して失業救済を求める運動をおこしている(『大阪朝日新聞』32・8・25)。
 また、海外移住という点では、この時期に「満州」とブラジルへの移住奨励がさかんになりつつあった。各地で講演会や活動写真会などが催され、そこでは家族連れの移住が強く勧誘されたのである。



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