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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      農家経済の動向
 農業恐慌の時期に福井県における農家の経済は、どのような状態にあったのだろうか。一九三五年(昭和一〇)に県農会が発表した『農家経済調査成績』から、そのようすを探ってみよう。この資料は、大野郡富田村、丹生郡吉野村、遠敷郡今富村の農家から自作・自小作(自作兼小作)・小作の各々一戸ずつを選んだ計九戸に関する調査報告書である。そうした意味では限定されたデータであり、調査項目や計算方法にもやや不明瞭な点がある。しかし、他に適当な資料が見当たらず、とりあえず大まかな動向は把握できるものと判断して利用した。
 まず、図11に自作・自小作・小作別に農家の農業所得(農業総収入から農業経営費を差し引いた分)の変遷を表わした。ここに示したのは、さきの三か村から抽出された自作三戸・自小作三戸・小作三戸の各々平均値である。耕作地の面積は、年によって異なるが、ほぼ一町歩から一・五町歩の間を推移し、自小作はその約半分が、小作の場合はほとんどすべてが借入地であった。これによれば、農業所得の減少が自作・自小作・小作の格差をみせながら、三〇年から三三年に谷底を形成し、そこからの回復は自小作・小作の方がやや遅れたことがわかる。
図11 自作・自小作・小作別農業所得(1928〜35年

図11 自作・自小作・小作別農業所得(1928〜35年)

 つぎに図12は、三者の農業経営費の変遷を表わした。農業経営費には、肥料費を筆頭に建物や農具、種苗費などを含めた「諸経費」と、租税や団体負担金などの「諸負担」および「小作料」が合算されている。当然ながら、諸負担は土地を所有する自作に、小作料は土地を借りる小作に重かった。図からは、諸負担と小作料の差が自作と小作の農業経営費の差となっていることがわかる。この差が、ひいては両者の農業所得の格差を生み出していたのである。また、諸負担と小作料をのぞいた純経営費に近い諸経費には、同様な下降線がみられる。じつは、この低減した部分の過半は、購入に依存することの多かった肥料費であった。つまりは、恐慌による経営不振が肥料費をもっとも圧迫したということになる。
図12 自作・自小作・小作別農家経営費

図12 自作・自小作・小作別農家経営費

 さらに図13は、三者の平均値をとって農家所得と家計費の変遷を表わした。ここからは、所得の減少にともない家計費を切り詰めていることがわかる。図では農家の所得を農業所得と農業外(兼業)所得に分けて表わしたが、農業所得の落込みがひどいほど、家計費の農業外所得への依存度が大きくなっている。事実、農家所得に占める農業外所得の比率が高いことは、福井県全体にみられる農家経済の大きな特徴であった。それを可能にさせたのが、農村・農家の副業をとりまく環境であり、なかでもこの時期に急成長をとげた人絹織物業と農村労働力の需給の関係であった。この点は、後にくわしくみることにしたい。
図13 農家所得と家計費(1927〜35年)

図13 農家所得と家計費(1927〜35年)

 ちなみに、三〇年段階における福井県の農家は、七万一〇〇〇戸あまりを数えた。このうち、自作が約三七%の二万六六〇〇戸、自小作が約四〇%の二万八一〇〇戸、小作が約二三%の一万六五〇〇戸あまりであった。全国平均に比べて自作の占める割合が大きく、自小作・小作の割合がやや少なかった。耕作地の規模は、一町歩未満が約七〇%、二町歩未満が約二七%で、両者をあわせると全体の九七%に達し、東北や関東地方に比べると大規模な耕作地が少なく、どちらかといえば近畿や中国、四国地方に似た状況であった。そして、その耕作地の約五三%が自作地、約四七%が小作地であった。この比率は全国平均にほぼ等しい(『帝国統計年鑑』)。また、土地の所有についてみると、一町歩以下の所有者が約五万三〇〇〇人、約一町歩の所有者が一万人前後で、それ以上の者が六〇〇〇人程度であったとされる(『福井県農会報』31・2)。ようするに、福井県の農村には、ごく少数の大規模耕作農家を最上層に、一町歩前後を耕作する自作が比較的厚い中間層をなし、その下に自作、自小作、小作のさまざまな経営形態をもった零細農家が多数存在していたのである。いずれにしても、福井県におけるこの時期の農村の構造については、総括的な評価を行うだけの十分なデータが
ない。



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