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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      組合の設立
 初年度、一九三三年(昭和八)の組合設立にあたっては、一組合に八〇〇〇円の資金が貸し付けられるとの前触れもあって、一一月初旬までに予定数の四倍をこえる八二か町村三六四部落(区、大字)の申込みがあった。それらの負債総額は一二〇六万二七一〇円で、一戸平均にすると六三四円に達した。そのうち、五〇〇円から一〇〇〇円の負債が全体の四七%と約半数を占め、借入れ先は、やはり高利な個人貸借が三五%ともっとも高く、ついで産業組合からの融通が二一%、頼母子講が一七%の割合を占めた。そこで、高利債・個人貸借の多い町村を優先的に選定するという方針を立て、一二月初旬には三三か村四六組合の設立が認められた。この四六組合、約一二〇〇戸の負債総額は一五二万円にのぼり、一組合平均で五八〇〇円の資金が貸し付けられることになったのである。
 三四年一月に設立のトップを切ったのは、丹生郡宮崎村上野の負債整理組合であった。全区民一八戸による組合で、うち一四戸が総額約一万五〇〇〇円の負債を抱えていた。整理計画の骨子は、二〇年間の連帯責任を前提に、毎月一日ずつ、冬季間は二日の共同労作で貯蓄をなし、これを整理の遅延した家の応援費に充当する。さらに一八戸を四つから五つの班に分け、競争裡に整理を進めるというものであった(『大阪朝日新聞』34・1・31)。また、同年九月に設立された坂井郡本荘村西今市の場合は、組合員三〇名のうち、二四名が四万五〇〇〇円あまりの負債を抱えていた。これに対して、三五、三六年に計一万四〇〇〇円あまりの資金が貸し付けられた。負債の整理と貸付金回収の方法としては、組合員の経済更生計画の実行による収支余剰金のほかに、養鶏による卵の売上げや機業工場にかよう女工の収入なども積み立てることが定められていた(資12上 五七)。
 そもそも負債整理組合法は、「隣保共助ノ精神ニ則リ、組合員ヲシテ其ノ負債ノ整理ヲ為ス」ことを目的に、法人である組合をとおして、組合員の負債整理・経済更生計画の樹立、組合員である債務者と債権者間の負債の条件緩和のあっせん、組合員に対する資金の貸付け、その他の負債整理に必要な事業の実施を定めていた。負債の有無にかかわらず、全区民の加入を求めていたのであり、わが国の伝統的な美風と讃えた「隣保共助」「相互扶助」の精神にもとづく連帯責任を大原則としていたのである。
 さらに、組合の機能として重視したのは、元金の一部切捨て、利率の引下げ、償還期限の延長などの債務・債権者間における条件の緩和であった。「公ノ秩序」「善良ノ風俗」を害しないかぎり、「互譲協調」の精神にもとづく負債の条件緩和を奨めたのであり、その見込みの立たない場合は資金の貸付けを認めなかった。組合のあっせんで条件緩和の協定が成立しない時には、別に市町村に設置する負債整理委員会や裁判所のあっせん、調整を仰ぐという方途を開いていたが、結局は返済条件の整った者を限定して救うという趣旨であった。つまり、救済するか否かの判断を、地域社会の共同体としての自助能力のうちに委ね、なるべく安上がりで効率のよい整理をねらったのである。
 負債整理事業は、三七年末の組合法改正と関係法の施行により、融通経路の拡大、融資額の増大、融通期限の延長など、制度の拡充がはかられた。福井県でも、組合の普及発達と相互の連絡協調を目的に、三七年一〇月、負債整理事業協会が設立された。この時点にいたると、経済更生運動と同様に、事業は戦争遂行のための農山漁村の生産力の伸張、生活の安定、さらに応召遺家族の救護を主たる目的とするようになった。
 三四年から四〇年の間に、福井県で設立された負債整理組合は一四八組合で、その組合員数は約四七〇〇名、うち三〇〇〇名近くが要整理者、すなわち債務者であった。総額五〇〇万円あまりの負債に対して一一〇万円あまりの資金が供給されている。もちろん、同事業が一定の効果をあげたことは否定できないが、当初の予定は大幅に下回る成績であった(資12上 五六)。



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