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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      自力更生のかけ声
 一大土木事業の実施と並んで、もう一つの農村救済策として、農村・農民の「自力更生」を訴える精神運動が推進された。すべてを政府の財政的援助に頼ろうとする農民の他力本願的な指向に歯止めをかけ、自力・共助の精神を育ませようとする施策であった。この自力更生の発想は、すでに農民自身の不況対策のなかで芽生えていたものであり、政府がこれを吸い上げ、さらに普及させようとしたものである。一九三二年(昭和七)七月、地方官会議における斎藤実首相の訓示は、「徒らに政府の救済にまつことなく、相卒ひて自奮自励、全能力を傾倒して勤倹業にはげみ、窮迫なる悲境を解脱する勇気と発奮更生の精神」とする自力更生の有効性を訴え、国民の間にその機運が高まりつつあるとの評価を加えて、さらにこれを強調した(『福井新聞』32・7・19)。
 福井県において自力更生運動のトップを切ったのは、今立郡河和田村であった。同年七月、「政府や当局の棚ボタ式の救済を待つよりも、足許を忘れてゐては、救済された時分には、もう次ぎの悩みが迫つて来る」との注意を促した「農村対策各人の自覚」と題するビラと、「火の用心、病の用心、心の用心」の「三用心」を説いたビラを全村に配布し、自力更生の覚醒運動をおこした。勤倹力行、貯金組合の組織、更生力行の模範者の表彰、冠婚葬祭の節約などを運動の実行事項に掲げ、さらに毎月三〇日を「更生デー」と定めて、早起き・業務精励の実行とともに、この日を酒・タバコ・茶・菓子などの「廃止日」にすることを申し合わせたのである(『大阪朝日新聞』32・7・21)。
 また県農会では、七月末から八月にかけて「自力更生の道を開拓」するというテーマで、前項で紹介した農本主義者、山崎延吉を講師に招いて県内九か所で巡回講演会を実施した(『福井新聞』32・7・22)。こうした経緯のなかで、山崎の説く「農民道」の実践をはかった、さきの大野郡小山村の農民魂打込み教育が、一つのユニークな自力更生策に位置づけられていくのである。
 九月には、県社会教化事業連盟が音頭をとり、県と市町村教化委員会や社会教育委員会、その他各種団体とが連携した国民更生運動がスタートした。その開始にあたり大達知事は、「他力による救済は所詮一時の弥縫策に過ぎず、国民は宜しく協心戮力、自力を以つて局面を展開するの覚悟」が緊要であると説き、「廉直勤倹は我国民の美風にして、……この伝統的国民精神の精華を発揮して、自奮自励以て生活の革新を図ると共に、公共奉仕の念を高め、愛国的熱情を以て難局を打開する」ことを訴えた。自力更生運動に、「まづ働け」の勤労主義、「楽しみは家人と共に村人と共に」といった隣保団結や共同扶助・公共奉仕の精神、皇居遥拝・神仏礼拝などの宗教的行為をとおした国家主義の思想が取り込まれていったのである。九月のはじめには覚醒週間、一一月のはじめには精神作興週間が設けられ、新聞紙上での知事の声明発表や、ポスター・ビラの配布、講演・講習会の開催など、マス・メディアを駆使した運動の宣伝・高調がはかられた(資12上 四)。
 大野郡上庄村では、九月に入って村の二〇歳から三〇歳代の青壮年で自力更生会をつくり、役場吏員、学校職員、団体役員もその後援会となり、共同生産や生活改善に取り組むことになった。製粉機を購入してパンや菓子、豆腐、コンニャクなどの自給自足を試みる一方、矯風会を組織して葬式も手料理でまかなうことなどを申し合わせたようだ(『大阪朝日新聞』32・9・17)。



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