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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    五 恐慌期の労働・農民運動
      全農県連合会の分裂
 一九二五年(大正一四)一月、南条郡武生町の平出支部が日本農民組合に加盟し、県下でも加盟支部が増加しはじめた二六年には、同支部の内藤弥兵衛宅が県連合会事務所とされた(『一九三四年版日本労働年鑑』は、日農県連の創立を二六年一〇月二〇日とする。以下『一九三四年版日本労働年鑑』は『三四年版』と略)。二七年六月に日農県連の第一回大会が開催され支部加入も急増していたが、翌二八年の総選挙問題で二七年一一月、内藤派が除名されると、『武生中央新聞』を経営していた田村仙之助が委員長となり日農県連のイニシアティヴをとった。それにともない、事務所も『武生中央新聞』発行所の武生町幸区三五番に移転した(「福井県日農全農関係資料」、『武生中央新聞』27・11・29)。
 日農と全日本農民組合の合同により全国農民組合が結成されると二八年六月、日農県連も全農県連となった。県連事務所の捜索があった同年一二月、田村も委員長の座を追われ同月一六日、事務所は武生町浪花一六番地に移り、県連のイニシアティヴは常任書記の木下利男と今江五郎の手に移った(「福井県日農全農関係資料」)。
 二九年の四・一六事件で木下が起訴され、全農県連は一時活動停止状態となるが、同年六月、執行委員長代理三田村等の名で第三回連合大会を武生町公会堂で開催し、産業部設置など連合会の再建を画することになる。そして、翌三〇年二月には「組合発展の都合上」として県連事務所は、丹生郡豊村当田(小島亀松方)へ移転し、委員長として内藤弥兵衛が再登場することになるとともに、書記として土本勇が活動をはじめるが、六月には共産党系ともくされて検束、起訴された(『三一年版』)。また、この年より敦賀郡松原村の信用組合破産による組合員債務履行が大きな問題となり、沓見支部などが設置され小作争議がおこされると、全農県連は活動の重点を嶺南地方の敦賀に移し、全農県連嶺南出張所がおかれた。ただ、この敦賀での無産運動は、全農のほかに福井県労働同志会、無産政党がそれぞれに運動を行い、最後まで統一的なものにはならなかった。
 また、翌三〇年末から県連は西納楠太郎の来県を契機に、蔭本久が書記として送り込まれ、全農総本部派と同全国会議派の対立にまきこまれることになる。翌三一年六月には四・一六事件以降、常任書記として県連を支えてきた今江五郎が辞職した。このころには、県連の総本部派と会議派への分裂も決定的になり、『三二年版』には「六月調」として、全農総本部県連は委員長内藤弥兵衛、三地区・一七支部・組合員数五五〇名の勢力で事務所は武生町大門河原、一方、全農全国会議は委員長松村庄太郎、書記蔭本久、六地区・一七支部・組合員数二五〇名で事務所は武生町内と記されている。
 『三三年版』には「二月調」として、福井県連合会の事務所は武生町平出となっている。そして同年一一月の全国会議派内で合法主義への転換をはかる再建(転向)派が優勢になると福井県も同一行動をとった。その結果、福井県でも会議派がイニシアティヴをとるかたちで合同がなされたようで、『三四年版』では全農県連は委員長蔭本久、四地区・二一支部・組合員数四〇〇名で事務所は武生町桜六二におかれている。さらに、『三五年版』では事務所が今立郡北日野村矢船松村方とされており、『三六年版』でも事務所は同じ松村方で、委員長松村庄太郎、書記長野村与助、一二支部・組合員数三六〇名とあるのが、『三七年版』には組合員数一五〇名のみの記載となり、組織の急速な弱体化がうかがえる。
 このように地方組織が弱体化するなか、三七年末人民戦線事件がおこると翌三八年二月、全農は創立以来一〇年たらずして解散することとなった。満州事変から日中戦争へと軍国主義化が進展し、一方では無産運動への弾圧が強まるなか、コミンテルンの二七、三一年テーゼの影響もうけて、農民組合は頻繁に分裂・合同をくり返した。中央の事態は地方へ直接的に波及し、県連内での主導権争いがしばしばおこり、県下農民組合は日農県連創設以来、前述のようなめまぐるしい離合集散をくり返し、組合員の脱退があいつぐなか衰退していくこととなる。



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