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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      都市計画法の適用
 米騒動は、福井市のような地方都市においても、都市整備の必要性が強く認識される契機ともなった。とくに同市(足羽郡木田村を含む)の場合は、この時期大火が続き、一九一七年(大正六)、一八年の二年間に焼失戸数一〇〇戸以上の大火が四回もおこり、さらに翌一九年に五度目の大火(焼失戸数五八九戸)が発生した(『官報』)。また、二五年の国勢調査人口では市内の人口密度が一人あたり二〇坪(一平方キロメートルあたり一万三四七六人)と全国的にも高い人口密度を示しており、工場の再配置、道路の拡張整備、上水道の整備などの都市計画事業がよりいっそう求められることになった(通5)。
 そうしたなかで、二五年一一月に武内徹市長は、「都市計画法」の適用をうけるために申請案を市会に提案した。一九年四月に公布された都市計画法では、都市計画と都市計画事業を区別し、都市計画自体にも法的効力を認めた。また土地区画整理制度をはじめて導入しており、財源措置としてはあらたに受益者負担金制度を設けていた。同法は翌二〇年一月より六大都市に適用され、それが二三年には札幌市以下二四都市に拡大されており、福井市も二五年末に内務省へ提出した申請案が認可され、二七年(昭和二)四月一日より、「都市計画法」と「市街地建築物法」の指定をうけた(『講座日本近代法発達史』9)。



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