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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    一 政党政治下の県政
      一九二八年総選挙と後援会組織
 一九二七年(昭和二)五月、「憲本合同」に反対の杉田定一は、政友本党から政友会への復帰を表明し、坂井郡の四名の県会議員もこれに同調した。同郡選出の衆議院議員熊谷五右衛門は、政友本党にとどまり、六月の民政党結成に憲政会の谷口宇右衛門、土生彰、山口嘉七の三名とともに参加した。この時点で、福井県選出の政友会の衆議院議員は、山本条太郎と猪野毛利栄の二名であった。
 普選法の成立により、有権者数は前回(二三年)の約四万三〇〇〇人が、いっきょに三倍の約一三万人にまで増加し、選挙制度も従来の小選挙区制が中選挙区制となり、定員は六名から五名に減少した。この一三万票をめぐって、二八年一月の解散にともなう第一六回総選挙が戦われることになった。立候補者は、政友会から現職の山本と猪野毛に加え新人の佐々木久二、民政党からは現職の土生と熊谷に元協調会理事の添田敬一郎、実業同志会からは松井文太郎、労農党からは田村仙之助、それに無所属の須田孝太郎を加えた九名であった。選挙通の間では、棄権を考慮しても当選には最低一万五〇〇〇票が必要であろうといわれていた。これは、前回第一選挙区(福井市)で当選した山本の得票数一五一五票のおよそ一〇倍にあたり、各陣営は大量の票数をいかに獲得するかに腐心することになる(資12上 二三八)。
 中選挙区制下で、複数の候補者をたてた政友会と民政党は地盤協定を迫られるとともに、当選をめざすためには同党の他候補の地盤にもくい込むことが必要となった。ほぼ同じ政策を掲げて戦う同じ政党の複数候補者がいるこのような選挙では、選挙期間中の言論戦や文書戦だけでは、他候補の地盤にくい込むことは難しかった。そのためには、選挙告示日のはるか以前から、個人後援会や政党支部をきめ細かく設立して、選挙地盤の増殖をはかる必要があった。
 このような選挙対策について、政友会の山本条太郎の例をみてみよう。二七年四月に福井日報の記者で地元で山本の秘書的役割を果たしていた村井石介が、政友会県支部長の広部徳兵衛にあてた文書によれば、さまざまな立候補者を予想し、各郡での集票可能数をみきわめるなか、政友会候補者がいない大票田の坂井郡への勢力扶植に最重点をおこうとしている。その方法は、従来福井市での山本の後援会であった「福井倶楽部」のような組織を県下各地に設立することであった。表2にみるように、すでにこの時点で福井市以外にも丹生・南条・大野郡に後援会組織があったが、さらに四月以降、坂井郡を中心に県内各地に急速に設立しようとしていた。このほか、漁業組合や医師団などの組合団体に推せんを依頼し、「寺院方面ニ特ニ手ヲ廻ス事」とされているなど、現在まで行われている事前選挙活動の方法がほぼ網羅されている(資11 一―二四八)。


表2 山本条太郎後援会(1927年4月)

表2 山本条太郎後援会(1927年4月)
 こうした事前選挙活動には、当然のことながら巨額の資金が必要とされたと推測できる。二七年二月に山本の秘書であった笠原清が、広部にあてた書簡には「後援会の費用もいまだ何等の具体案も出来ざるに三百五百との大金を前渡しハ不賛成ニ御座候、其辺は可然御計ひ願上候」と記されている(資11 一―二三八)。この資料からは、総選挙の一年以上前から具体案のできない後援会結成の動きにも三〇〇円、五〇〇円の大金が流れていたことをうかがうことができ、実際に後援会ができ活動をはじめた場合には、これの数倍の資金が必要であったと思われる。表2によれば、後援会は二七年四月の段階で既設六、予定八であり、これらの後援会が選挙にむけて活発な活動を行った場合に必要な資金はおそらく数万円から一〇万円をこえたものと思われる。この総選挙は、政友会が個人本位、民政党が政党中心といわれたが、民政党の添田も個人後援会設立を志向し、また、同党の各郡における倶楽部・同志会の設立にも多額の資金が必要であった(『福井評論』28・1、2)。
 山本は、二八年二月の総選挙では九名の候補者のなかで各郡からもっともまんべんなく得票を重ね二万票余でトップ当選を果たしている。この選挙時、山本は南満州鉄道会社の社長をつとめており、彼自身は満足な選挙活動ができなかったにもかかわらず、このような大量得票ができたのは、前述の地域別後援会が大きな役割を果たしたためだと思われる。法定の選挙費用は福井県の場合約一万円と決められていたが、このような選挙実態ではそれはあくまでも「表向の話」にならざるをえなかった。また、わずか九一票差で落選した政友会前議員猪野毛利栄の大野町の支持者が、同町の山本や佐々木の支持者宅を襲い暴行事件をおこしたのも、激しい選挙実態の後遺症であったといえよう(『山本条太郎』3、『福井新聞』28・1・27、2・25、26)。
 実業家であり資金の豊富であった山本の場合は、選挙資金も自前でそろえることができたが、多くの候補者は政党に頼り、また個人的にも資金集めに奔走しなければならなくなる。二八年の総選挙からは、政友会も民政党もそれ以前の数倍にあたる数百万円から一千万円にものぼる選挙資金を総裁や党幹部が用意して、各候補者に配布したといわれる(野村秀雄『政党の話』)。これ以後、党幹部が離党時にいわゆる子分といわれる議員を引き連れていく背景にもこのような選挙資金の配布を通じての密接な関係があった。
 理想的な選挙をめざしての普選ではあったが、現実には金権選挙のいっそうの拡大がなされた。また、政治に必要な資金の巨額化はあいつぐ疑獄事件を引き起こすことになり、さらにそれを政争の具にしたこともあって、政党政治への国民の不信は深まっていくことになった。そして、この政治不信の打開は、国民の手でなされるのではなく、政党政治の否定を志向する官僚・軍部の手による選挙粛正運動に国民が協力するかたちで行われるのである。



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