一九二六年(大正一五)一二月二五日の天皇崩御により、昭和に改元された。昭和元年はわずか一週間で終わり、諒闇のなかあわただしく昭和二年を迎えることになる。この年の三月には金融恐慌が発生し、四月には若槻礼次郎憲政会内閣の総辞職により、「憲政の常道」論によって田中義一政友会内閣が発足したが、翌五月には山東出兵が行われ、中国に対する幣原協調外交は東方会議により積極外交に変更されていった。
また、戦後恐慌から金融恐慌にいたる「慢性不況」は、労働争議・小作争議など社会運動や市民運動の全国的高揚をもたらしていた。福井県でも六月に日本農民組合福井県連合会と労働農民党福井県支部連合会が創立大会を開催し、二七年(昭和二)の小作争議件数は三九件を数え、労働争議も先鋭化するきざしをみせていた。このほか、同年春から夏にかけて、営業収益税反対運動、自転車税軽減運動、電力料金値下げ運動などが県下各地でくり広げられていた。
このような社会状況に加えて、福井県では、近来にない暖冬といわれていたのが、一月下旬から二月中旬にかけて一八九六年(明治二九)に福井測候所がおかれて以来の豪雪となり、福井市で最深積雪二〇九センチメートル、大野で二九七センチメートルを記録した。この豪雪は、一か月にわたり交通網をマヒさせ、織物業などの産業にも打撃をあたえるとともに、各地で家屋の倒壊や雪崩がおこり、五〇名をこえる圧死者を出すにいたった。また、この豪雪被害は、国会でも国による救済策が議論され、政府が雪害対策や豪雪地帯の認定などの必要性を認める契機となった(福井地方気象台『福井の気象』)。 |