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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     三 市制、町村制の施行
      有力町村の造成と異議申立て
 福井県の町村合併において前述したような規模縮小が民意のすべてであったかというと、それだけではない。現在残されている県へ提出された意見書・請願書類のほとんどは、第一、二次案の尊重を、すなわち資力のある「有力町村造成」を訴えている。このことは、地域有力者の民意が二つに分かれていたことを推定させるが、その具体的事例をみていきたい。
 大野郡木ノ本村総代高橋治兵衛ほか二人からは、明治二十一年(一八八八)九月二十日に請願書が県へ提出された。そこでは、今井村外七か村(大野市)は「各村綜代自己ノ趣意ノミ主張仕候ニ付無余儀単立致度旨」を主張していたが、その後熟談を重ねた結果、第二次案の二新村を一新村にしたいと請願している。理由として、昔よりこの三戸長役場所轄区域は上庄と呼ばれており、合併すれば「区域大ナレハ資力大ナリ、資力大ナレハ村長其人ヲ得、村長其人ヲ得レハ自治体モ必立スヘシ、必立スレハ将来ノ進歩モ他ニ遅レザルヘシ」と述べている。結果としては、この地域は県下でも珍しく民意としての「有力町村造成」が認められ、三戸長役場所轄区域内の一八村合併による上庄村が成立した(竹尾五右衛門家文書)。
写真46 町村合併の請願書

写真46 町村合併の請願書

 しかし、この事例は県下では例外であり、多くの場合「有力町村造成」は実現しなかった。たとえば南条郡鯖波村外七か村(南条町)の三「小学簡易科」の学務委員からの上申書はつぎのようなものである。十九年の小学校令により福井県の村部の学校は設備が十分でないとしてほとんどが「小学簡易科」となっている。「町村自治」育成の根幹をなす教育振興のためには「衆力ノ団結」による「完全ノ町村」が必要であるとして、一四村合併(原案)による新村を是非実現したいと訴えている(井上六兵衛家文書)。また、今立郡赤坂村外七か村も、知事が「下情ヲ知ルニ孜々タル」ことには「感佩」しているが、その結果「現時ノ利害ニノミ注目」した主張が聞き入れられていると批判して、原案(一四村)による合併を請願した。これら原案での合併はいずれも実現せず、二または三新村に分割されることになった(「新村撰定事由調」)。
 また、遠敷郡東部の無悪村外六か村・安賀里村外七か村と熊川村外七か村の地域は、前述したように第二次案では、無悪村外六か村と安賀里村外七か村で一新村、熊川村外七か村と井ノ口村外六か村のうち、井ノ口・市場・三宅・仮屋の四村を加えた一二村で一新村の町村合併が計画されていた。しかし、町村制施行時には大きく変更され、近世の郷組や戸長役場所轄区域とも異なる鳥羽村(一一村、四八二戸)・瓜生村(九村、四七六戸)・熊川村(新道・熊川・河内の三村、三九五戸)と三宅村(井ノ口村外六か村、三九五戸)の四新村が成立した。
 これに対して、二十二年三月には、安賀里村外七か村と熊川村外七か村の一六村が、「新村区域組替之義ニ付嘆願」を提出し、第二次案での町村合併を請願した。さらに、七月には鳥羽・瓜生・熊川の三新村の二村への組替えが請願された。郡役所でもやむなく郡長出席のもとに諮問会議を開催して各村代表に意見を述べさせたが、再修正はなされなかった。この三新村のなかでも、とくに熊川村(旧新道・熊川・河内村)は維新以来経済が激変し、戸数は三九五戸と他村なみであったが、田畑をもたない細民が多数を占めているため、村財政の見通しが立たないとして、この町村合併には執拗に反対した。村会議員や村長の辞職があいつぎ、村役場には郡書記が派出され村長職務代行者として執務することによりようやく村政が成立していた。二十四年三月には瓜生村への合村を村会が決議し、さらに翌二十五年一月には三宅村への合村を県へ請願しているが、これが受け入れられないとみるや同年三月には「廃村之請願」がなされている。さらに、四月には内務大臣への建白書を提出しているが、結局この組替えの請願は実現しなかった(逸見勘兵衛家文書)。
 この遠敷郡東部の例は、当初県や郡役所がもくろんだ「有力町村造成」という方針が、後退したことへの異議申立てであり、そのうえ、成立した三新村が近世の郷組とも戸長役場所轄区域とも異なり、また共有山や用水などの従来の慣行や学区も無視されたため、町村制施行への激しい反対運動となったのである。
 このように、福井県の町村合併は、「有力町村造成」と「隣保団結ノ旧慣尊重」という二つの民意の調整のなか、当初の目論見と比べかなり小規模なものとなり(表35)、組合村も一五村にのぼった。町村合併の区域は、戸長役場所轄区域のままの町村が約七〇あり、それ以外の町村も多くは近世の郷・庄や組にもとづく合併であり、「隣保団結ノ旧慣尊重」に重点がおかれた。それは、政府の示した戸数三〇〇〜五〇〇という合併規模ではあったが、町村制の施行の柱の一つであった部落有財産の統一が先送りされたこともあり、実態としては「自治」をになう町村としての財政的裏づけはほとんどなかった。こうして成立した新町村、なかでも多くの新村は、国政委任事務遂行と役場および学校の維持で精一杯であり、「自治」の建前が付与されただけであった。



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