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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     三 市制、町村制の施行
      合併事業の推進
 福井県においても「有力町村造成」と「隣保団結ノ旧慣尊重」という二つの要求が、町村合併の作業に困難をもたらす。町村合併案は、まず県の意向をうけて郡役所が作成し、それが戸長はじめ地域の有力者に諮問された。この過程を遠敷郡と坂井郡の事例でみてみよう。
 遠敷郡では明治二十一年(一八八八)八月二日に郡内を一一町村とする合併原案が、小浜小学校において戸長や連合町村会議員などに提示された。この原案は、二日の集会において戸長等の意見を参考にして修正され、半月後には一三町村に変更された第二次案が作成され、郡内各町村へ配付された。そして、この第二次案の町村ごとに八月中旬から下旬にかけて「町村自治区域諮問会」が開催された。
 第二次案で一新村とされた無悪村外六か村と安賀里村外七か村では、八月十九日に「町村自治区域諮問会」が、高木・久世の両県官や郡吏および戸長・村会議員・総代・「名望人」が出席して開かれた。そこでは第二次案に瓜生・関を加えるか、またはこの二村を加えたうえで二新村に分けるという二つの修正案が出されるとともに、村名や役場位置についても意見が出された(岡本卯兵衛家文書)。
 また、熊川村外七か村と井ノ口村外六か村のうちの井ノ口・市場・三宅・仮屋の計一二村の総代などが出席した「町村自治区域諮問会」も八月下旬に開催された。ここでも熊川村外七か村内の脇袋村からは熊川村との分離が、井ノ口村外六か村内の三宅村からは井ノ口村外六か村戸長役場所轄区域での町村合併が主張された(逸見勘兵衛家文書)。
 また、坂井郡の場合は、町村合併を審議するための町村連合会が設立された。郡下の一〇村前後で一人の議員を選挙し、選ばれた三五人の議員は七月十二日、三国町勝授寺に会同し、徳山繁樹坂井郡長が議長となって坂井郡を二三町村とする合併案を審議した。「新規町村組立方、甚タ混難」であり、その議論は二週間にわたったが、坂井郡町村連合会として町村合併案を作成した。その具体的内容は不明であるが、おそらく町村数は原案の二三町村よりふえていたであろう(高椋節夫家文書)。
 この段階での福井県の町村合併案の特色は、表35からも明らかなとおり、政府が「合併標準」で打ち出した三〇〇〜五〇〇戸という「有力町村造成」の規模をかなり上回る町村合併を計画していたことであり、前述の坂井郡、遠敷郡においてとりわけこの傾向が強かった。当初福井県は「自治」をになう町村の財政基盤を強固にすることに最重点を置いていたと思われる。

表35 町村合併計画の推移

表35 町村合併計画の推移
 ところが、地域有力者の民意を問う「町村自治区域諮問会」や町村連合会が県下全域で開催される過程で、実際の合併区割りが提示されると、用水・共有山・役場位置などの地域利害(「隣保団結ノ旧慣」)の噴出を無視できなかったため、合併規模の縮小をはからざるをえなくなった。
 九月から十月にかけて県の新法取扱事務所は、合併案の取りまとめ作業に入った。この作業もかなり困難をきわめたようで、そのことは県が九月末に来年一月には町村区域を正式決定すると郡長・戸長あてに通牒しているが、これを十月上旬には「詮議之次第」もあるとして延期していることからもうかがえる。それでも、十一月上旬には、県下を一七〇町村とする合併規模においてかなり縮小された第三次案が作成され、知事の裁決をうけるとともに、新聞紙上に公表された(『福井新報』明21・11・6〜16)。それによれば、坂井郡は二三町村が二八町村に、遠敷郡は一一町村が一七町村に、吉田郡は一〇町村が一五町村になっており、県は「有力町村造成」と「隣保団結ノ旧慣尊重」という二つの課題を解決するにあたって後者を優先せざるをえなかったのである。
 なお、十一月の第三次案はその後も合併規模の縮小が行われ、翌二十二年二月十六日、一市九町一六八村からなる市制、町村制の施行区域と市町村名が確定するとともに、四月一日からの施行が発表された(県令第一八〜二〇号)。



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