これらのうち、護法的なものは、1・2・4・6であり、他の3・5・7・8・9はいずれも、明治政権が強引に推進する新政策への反対抗議であることがわかる。さらに1・4・5・6・7には、いずれも「耶蘇」の語を用いるが、大一揆の直接の発端に寺院側の大きな働きかけがみられる以上、彼らが護法的立場から民心を掌握する便法として、「耶蘇」の語を機会あるごとに喧伝したものとみてよい。したがって、こうした諸要求事項のなかでは、「耶蘇」の語は教義そのものを問題とするのではなく、単に「反対すべきもの」とか「好ましからざるもの」という、嫌悪意識の表現として掲げられたといえよう。
まず護法上の要求でとくに重要なものは、2の「説法」再興の件と、6の「三条ノ教則」を勧める教導職の設置反対である。一方、護法上の側面とはまったく無関係の3の「学校」、5の「断髪・洋服」、7の「洋文」、8の「地券」、9の「新暦」は、いずれも明治政権の新政策によるものであるだけに、一面「反動的一揆」としての性格が見出される。
ところが、大野町での元足羽県支庁の焼打ちや、商法会社・高札場および布告掲示所などの破毀は、明らかに権力支配機構への反発を意味するものであり、明治初年の「村方騒動」などの「世直し型」的状況とは性格を異にする。支庁の焼打ちにともなう地券調書類いっさいの焼失の件は、大野郡下二四八か村の分につき、かねて県が各村取調台帳、一筆限帳の作成を進め、ほぼ完成した時点で生起したのである。
足羽県を併合した敦賀県が、旧足羽県下諸町村の地券調書類の作成を性急に進めたことが、かえって農民側のきびしい反発を招いたものとみられ、したがって、地券取調の実務担当の区・戸長が敵視されるのも当然のことであった。大野町の阿部善四郎(商)・鈴木重明(同)の両戸長が預かっていた地券をことごとく一揆勢が奪取し、善導寺境内に運んで焼却したことは、その間の事情を如実に物語る(山田正一家文書)。
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