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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
     五 越前真宗門徒の大決起
      大一揆の展開とその顛末
 三月五日、福井支庁から派遣された官員や邏卒らの官憲が、竹尾五右衛門ら五人を「護法連判」の主導者として拉致したのを発端として、まず大野郡下で大一揆が勃発する。翌六日には、おもに上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀または焼き打ちし、また農村では、豪農の区・戸長宅を攻撃した(表7)。

表7 大野郡での攻撃目標(明治6年3月6日)

表7 大野郡での攻撃目標(明治6年3月6日)
 福井支庁では事態を重視し、官憲のほか旧藩士から募集した貫属を現地に派遣するとともに、大野町に乱入した農民を「説諭」したが、一揆勢の猛攻に押されて、彼らの掲げる「三か条の願書」(一、耶蘇宗拒絶の事 一、真宗説法再興の事 一、学校に洋文を廃する事)を福井支庁に提出することを確約せざるをえなかった。ところが八日夕刻となり、「願書」に対する県側の回答が遅れたことから、またもや一揆勢が集まり、「大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ」という険悪な事態となった(富永亮一郎家文書)。そのため官員は、いったん一揆側の「願書」のすべてを認めるということで、ようやく事態がおさまったのである。また、その場での窮地を脱するための謀計にすぎなかったとはいえ、一揆主導者の処刑は絶対にしないと確約することで、はじめて一揆の徒が退去した点からみて、官側が一揆の猛勢に対して、いかに脅威を抱いたかがうかがわれる。
 その後本庁ではただちに、名古屋鎮台と大阪鎮台彦根営所に対し一揆勃発の事情を報告、ついで十一日、名古屋鎮台に至急出兵方を要請し、いよいよ「兵威」による一揆主導者の一斉摘発の準備を進めようとした矢先、同日から隣接の今立郡に大一揆が勃発する。同郡下では、小坂村はじめ近村の農民諸階層による同村戸長富田重右衛門宅に対する打ちこわしが発端となる。そして地域的には、莇生田・東庄境・野岡・粟田部・定友・岩本・大滝・松成・中新庄の諸村に及び、表8のとおり、大野郡の場合とほぼ同様に、教導職寺院はじめ豪農商の区戸長居宅や土蔵などに対して、破毀焼却のかぎりを尽した。

表8 今立郡での攻撃目標(明治6年3月11〜13日)

表8 今立郡での攻撃目標(明治6年3月11〜13日)
 こうした一揆の高揚に驚いた県側は、ただちに官憲や旧鯖江貫属を派遣して、断固武力弾圧の挙に出たため、十三日には一揆勢は四散する。なお今立郡でも、横越村に屯集した農民から、大野郡同様の「三か条の願書」が差し出されたが、官員はこれを拒絶している(富永亮一郎家文書)。
 十三日、坂井郡下でも九頭竜川以北の農民が各所で蜂起し、金津・兵庫・森田近辺に多数群集して、約一万人にふくれあがった一揆勢は、福井をめざして進撃する。そして舟橋の上で、これまた大野郡同様の「願書」を差し出したが、それが拒否されると猛然と反撃に転じた。官側は、福井町周辺の要路に邏卒や貫属を配置し、砲撃による武力制圧を加えるなど、一揆勢の福井侵入を食い止めた。さらに十五日には、丸岡町近くの一本田に押し寄せ、また川西地方からも川東へ渡ろうとする不穏な形勢をみせたので、県側は川西諸道へも官憲を派遣して、「西北諸村響応の道」を遮断し、一方郡内の戸長も「説諭」に尽力したため、一揆勢はようやく四散したのである。
 県当局はただちに中央政府に対し、再三再四、一揆鎮定の詳細な報告を行ったが、大野町では十四日、小隊取締(堀寛)はじめ小隊長(正・副)・弾薬方・小荷駄方・探索方(斥候)など一小隊の部隊編成を行い、一揆の再発阻止の態勢をとった(「静斎日誌」)。そして、同月二十二日からの鎮台兵の進駐の下に、さきにいったんは容認した一揆側の「願書」をいっさい取り消すとともに、一揆参加者の一斉検挙に乗り出した。そして、八〇余人の捕縛者のうち、一揆主導者の刑罰はきびしく、捕縛からわずか半月たらず後の四月四日に判決があり、表9のとおり、金森顕順はじめ六人は、即日処刑された。

表9 大野郡の処刑者

表9 大野郡の処刑者



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