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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      安政の大獄
 慶永を中核とする一橋派の活動に対して、井伊直弼を枢軸とする紀伊派は、専ら血統論をもって紀伊慶福擁立運動を展開した。将軍の地位は血統の正統と近親の順に従うべきもので、人物の賢愚によって左右されてはならない。まして、臣下が将軍継嗣を品評し取捨するなど不忠の至りであると主張し、譜代大名と旗本の多くがこれに賛同していた。ことに江戸城内に隠然たる勢力を持つ大奥の婦人達は、年来の水戸嫌いが昂じて、故なく水戸家出身の慶喜を嫌悪する空気が強く、一橋派にとって大きな障害であった。さらに一橋派に好意的であった老中阿部正弘も、安政四年六月病没したから、江戸城内では紀伊派の勢力が一段と台頭することとなった。
 『咋夢紀事』安政五年四月十四日の条には、橋本左内を訪ねた岩瀬忠震が、一橋派の幕臣の間で、慶永を宰輔に推して老中の上に立て、将軍継嗣の慶喜を補佐させ、この難局を打開しようという計画があると伝えたことが記録されている。しかし、そうした計画もはかばかしい進展をみせず、その年四月二十三日井伊直弼が大老に就任し、事態は断然紀伊派が優勢となった。
 慶永やそれを補佐する福井藩の首脳は、英明の慶喜を将軍継嗣とし、天下の有志が結束して慶喜を守り立てれば、必ずや時局に即した幕政改革が断行され、公武は融和し国論は一致に導かれ、国力を結集して外交を初めとする難問は打開されると確信していた。橋本左内が安政四年十一月二十八日付で村田氏寿に送り、日露同盟の必要などを述べた有名な書状(『橋本景岳全集』)には、慶喜を中心に全国雄藩の力を集結する、そうした新体制の構想がよく述べられている。ことここに至って、右のような構想を実現するためには、井伊直弼を中心とする勢力を、幕府中枢から排除するしかない。安政五年五月以降、慶永や一橋派有志の関心は、その一点に集中されたが、これもなかなか実現には至らなかった。
 やがて安政五年六月十九日、直弼は勅許を経ぬまま日米修好通商条約の調印を強行し、同二十日には老中堀田正睦・松平忠固を罷免、代わって鯖江藩主間部詮勝、太田資始・松平乗全を新老中に任命した。この幕閣改造は、違勅調印を朝廷軽視の所業であるとして、たちまち渦巻いた批判をかわすため、その責任を負わせた意味もあったが、内実は一橋派に理解を示す正睦と忠固を追放し、幕権擁護派によって老中の体制を固めたものであった。
 六月二十日朝、万策尽きた慶永は彦根藩邸を訪ねて直弼に談判し、さらに徳川斉昭や尾張藩主徳川慶恕・水戸藩主徳川慶篤と共に江戸城へ押し掛け、直弼や老中を面詰して、違勅調印や将軍継嗣問題についての責任を追求した。しかし、直弼等の老獪な応対の前に何の成果も得られず、かえって定日以外の日に突如登城し、大老や老中を面詰して江戸城内を騒がせた不始末を問われる結果を招いた。いわゆる不時登城事件である。
 翌六月二十五日、直弼は一橋派の機先を制して、紀伊慶福の将軍継嗣決定を発表し、七月五日に至って不時登城を強行した慶永に隠居・急度慎という厳しい処断を下したほか、斉昭に謹慎、尾張藩主慶恕に隠居、水戸藩主慶篤に当分の間登城禁止を申し渡した。これに端を発して、直弼が反対派の公卿・大名から尊攘派の志士に至るまで、一〇〇余名に対して大弾圧を加えたのが安政の大獄である。福井藩では一橋慶喜擁立のため活動した橋本左内が、この年十月拘禁され、翌安政六年秋吉田松陰・頼三樹三郎等と相前後して処刑されている。
 慶永の活動はこれによって全く水泡に帰し、文久二年四月まで五年にわたり、一切の政治活動を封殺された謹慎幽閉の生活を送ることとなった。慶永隠居の跡には、越前松平家の支流で越後糸魚川藩主(一万石)の松平直廉が、幕命によって十七代藩主に就任し、茂昭と改名した。



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