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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      将軍継嗣問題の紛糾
 将軍継嗣問題は、誰を継嗣として決定するかをめぐって、天下を二分する対立抗争をまき起した。慶永が公然と将軍継嗣候補者につき幕府へ建言した安政四年の時点でいえば、井伊直弼を中心とする有力譜代大名の勢力が、将軍家定の従兄弟で血縁の最も近い紀伊藩主徳川慶福の擁立を主張した。慶福の年齢は一二歳で、差し当たり将軍を補佐することはもちろん、名代も務まらない少年であった。しかし、直弼等は血統上最も適格な慶福を擁して、幕府の権威を確立し、従来どおりの体制を強化しようとしたのである。井伊直弼を中心とする慶福擁立の勢力は、紀伊派と呼ばれている。
写真146 徳川慶喜

写真146 徳川慶喜

 一方、前述のように優れた人物を将軍継嗣とし、その人を中心に幕政の改革を推進して国力を結集し、外交問題等多難な時局を乗り切ろうと考えた慶永は、少年期より俊才の誉れ高く、大いに将来を嘱目されていた一橋慶喜の擁立を主張した。慶喜は前水戸藩主徳川斉昭の七男でこの時二一歳、家定との血縁は遠かったが、その英明ぶりが人望を集めていた。慶永の主張には島津斉彬・山内豊信(容堂)・伊達宗城・蜂須賀斉裕といった有力大名、岩瀬忠震・川路聖謨・土岐頼旨・水野忠篤などの有能で開明的な幕臣が賛成し協力した。この勢力を一橋派と呼び、難局を打開するため優れた将軍継嗣を立て、諸藩の力や人材をも結集し、幕府の独裁体制に修正を加えようとする構想を有していた。
 『昨夢紀事』によれば、慶永が一橋慶喜の擁立について表立った行動を開始したのは、安政三年秋の頃からである。その年十月六日、慶永は尾張藩主徳川慶恕や蜂須賀斉裕・島津斉彬・伊達宗城・板倉勝明等の大名に書状を送り、慶喜擁立について賛同と協力を求めた。中には尾張の慶恕のように当初は傍観的で熱意を示さぬ者もあったが、将軍家斉の子で慶永の従兄弟にあたる徳島藩主蜂須賀斉裕などは、大いに賛成して、以後積極的な協力姿勢をとった。
 こうして次第に同志を獲得した慶永は、翌安政四年秋より堀田正睦・久世広周・松平忠固など幕府老中を歴訪して説得に努め、同年十月十六日には蜂須賀斉裕と連署して、一橋慶喜の将軍継嗣決定を迫る建言書(『松平春嶽全集』)を、幕府に提出するにいたった。慶永と斉裕はその建言の中で、米使ハリスに許可した将軍謁見のことは、今後ロシアやイギリスにも及び、それにともなう国内の騒擾はいっそう深まり、我が国は危急の秋を迎えるであろう。この時に当たり真先きに行うべきは、将軍家定を補佐し、諸大名を畏服せしめるほどの賢徳の人物を、将軍継嗣に決定することである。紀伊慶福は血統こそ家定に最も近いが、いまだ幼年で天下の人心を結集することはできない。一橋慶喜の外に、この大任を果しうる適格の人物はいないと説いている。
 橋本左内が安政四年十月六日付で村田氏寿に発した書状(『橋本景岳全集』)には、慶永の老中久世広周説得の状況が記録されている。慶永は広周に対して、まず外交問題の帰趨と国防充実の必要を説き、「海防之本ハ国内之人心を統一し、士気を励まし候事、此ニ至りてハ建儲之外ニ策なかるべし」として、慶喜擁立の急務であることを論じたという。この時期慶永は、外交内政すべての問題の根本が、賢明な将軍継嗣の決定にあると考え活動したのである。
 また、そうした継嗣問題解決のため慶永を補佐したのが、中根雪江と橋本左内である。ことに安政四年八月江戸に召し出されて、侍読兼御内用掛を命じられた二四歳の橋本左内は、蘭学研鑽によって得た国際知識も駆使して慶永を援助し、幕府や諸藩の有司の説得にあたった。翌五年二月には京都へ派遣され、対米条約調印の勅許や将軍継嗣問題を有利に解決する内勅を得るため、有力公卿邸に出入して活動した。しかし、紀伊派の動きもあり、京都における左内の努力は、結局実を結ばなかった。



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