目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      大名貸への依存
 福井藩では、半知の直後「前々・御金御用立候上方之者共江御返金難被成」(「家譜」)と棄捐したことからそれ以後の一時期商人より融資が受けられなかった。次の吉邦代では『越藩史略』によると正徳五年九月九日条に吉邦が「本城に於て、商賈京師北脇、大坂の肥前屋を見る」とあり、享保四年七月三日条にも「東都の商賈益田屋に饗を賜ふ」とあって三都の商人との交流が深まっている。
写真12 越州一件之控

写真12 越州一件之控

 大坂蔵屋敷が設置されたのは宝暦九年のことで、大名貸の元利払いに充当する廻米の体制も整った。大坂の新興商人牧村屋が蔵元になっているが、藩札のところでふれたようにこの頃から牧村が藩財政への関与を深めている。しかし、当時福井藩の資金源の主力は領内において調達した御用金にあって大名貸への依存度は高いとはいえなかった。ところが、寛延元年や明和五年の一揆にみられるように御用金に対する領民の抵抗が強くなり、その調達は次第に困難なものとなっていった(表20)。明和五年の一揆後藩主は帰国の費用にも事欠き、江戸の富商一一人に頼談したが用立てを断られている(『国事叢記』)。そこで同七年藩主重富は実弟の一橋徳川治済を通じて幕府を動かし、大坂商人に借入を強要するという非常手段をとった。老中松平右近将監武元が大坂東西両奉行に命じ、奉行が大坂三郷惣年寄を介して大坂の富商一五人に頼談している。鴻池善右衛門家の「明和七寅年越州一件之控」(鴻池文書)にその詳細が伝えられているが、それによると同年六月から交渉が始まり十人両替と五人の大名貸計一五人に対し三万両の用立てを依頼している。商人たちは非協力的で断り続けるが、同年十二月に両奉行は頼談による方法を打ち切り、五人の商人を追加した二〇人に融資を命令した。鴻池善右衛門には二〇〇〇両が割り当てられ、同家では翌八年二月までに一〇〇〇両を融資し、四月に五〇〇両を免除され、残り五〇〇両を十一月に納めた。福井藩はこれに対し、利子率八朱、一〇か年賦の約束どおり安永九年十一月までに元利ともに返済している。鴻池に関していえば同家はその後も福井藩との関係を続け、幕末までに総額で六万六〇〇〇両を貸している。
 文化七年の「江戸・御国・大坂当時御取扱有之候御借金」(松平文庫)によって福井藩へ一〇〇〇両以上を融資した大名貸商人についてみておこう。
 まず大坂では鴻池三家の一万一九三四両を初め加島屋久右衛門一万一〇五三両、升屋伝兵衛一二九〇両、島屋市兵衛一〇三六両がみえ、江戸では石井太郎右衛門三七三三両、小林勘兵衛三〇〇〇両、松井庄三郎一五〇〇両、三村清左衛門一〇〇〇両、小島専右衛門一〇〇〇両、和泉屋吉次郎一〇〇〇両となる。「御国」には加賀粟崎の木谷藤右衛門や小浜の商人も含んでいるが、木谷藤右衛門の一万六五〇〇両を筆頭に小浜の古河嘉太夫・木谷七郎右衛門九七四四両、三国の村井屋甚兵衛・吉田小兵衛三八六五両、同じく三国の木屋甚右衛門一二〇〇両がみえる。個別では加賀の北前船主木谷がもっとも多額であり、地域別では大坂商人の負担額が江戸商人を凌駕している。国元では福井町商人の名がみえず、この頃になるとその財力において三国の商人に及ばなかったことがわかる。



目次へ  前ページへ  次ページへ