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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      専売仕法への対応
 福井藩では十八世紀以降殖産興業にもとづく専売仕法を実施している。それは財政の困窮に苦しむ藩として新しい財源を確保するためと、重い貢租負担に喘ぐ百姓に特定商品の栽培を奨励することで農業経営の安定をはかるためであった。
 同藩における早い実施の例は、元禄十二年から始まる和紙の専売制である。半知以後で初めて福井藩が領民に御用金を課した年でもあった。同年閏九月、藩は和紙の生産で繁栄していた今立郡五箇の岩本村に紙会所を設置し、紙業に統制を加えて運上を課したのであった。勘定所が紙会所にあてた定書(大滝神社文書中の川崎家文書 資6)によると漉き立てられた紙はすべて判元に買い取られ、この段階で運上銀が徴収された。判元には、はじめ京都の商人三木権大夫・吉野屋作右衛門・山田道与右の三人が任じられたが、同十六年に岩本村の仲買商内田吉左衛門・野辺小左衛門・中条善左衛門・内田吉右衛門の四人に交代、享保八年には大滝村の三田村和泉にかわった。しかし、紙会所制度の成立以後漉屋は藩から運上銀を、判元から判賃を取られたことで困窮し、五箇の紙業は衰退した。
 藩自体が積極的に専売仕法に乗り出したのは重富治政の末頃からで、その早い例に菜種専売がある。寛政二年九月、家老が申し渡した仕法によると領内で生産された菜種はすべて金津奉行所と上・中・下三領の郡方役所を通じて三国湊の藩の蔵所に集荷された(「家譜」)。かくして藩に上納された菜種は同地の問屋を通じて大坂に送られ、領内における販売も蔵所で取り扱われた。集荷に当たっては大庄屋が介在しており、翌三年の「菜種一件取扱方御書付」(片岡五郎兵衛家文書 資3)によってその詳細を知ることができる。しかし、この仕法も生産者である百姓の困窮によって数年で廃止を余儀なくされ、同五年二月には「百姓方難儀之趣ニ付当年外字前々之通勝手次第商売仕候様」にと触れ出されている(「三国湊御用留帖」)。寛政年間には糸の専売も行われ、寛政十一年六月福井城下に糸改会所が開設された。慶松太郎三郎・発坂屋次郎三郎・斎藤八郎右衛門の三人の商人が取締りに当たっていた(「家譜」)。
 文政五年、藩の産物役所は藍玉仕法を行っている。これまで阿波から移入した藍玉については運上銀を徴収するにとどめ商人は紺屋と自由に取引きを行っていた。ところが、藍玉仕法の実施で、商人を排除して藩自身が独占的に移入に当たり、藩が紺屋に藍玉を一手販売することに改めている(吉川充雄家文書 資4)。商人と紺屋の取引きでは不良品があれば値引きされ、代価の支払いも一年後の決済になっていた。それが藩専売となったことで値引きは一切認められず、代金決済も年内の七月・十二月の二回とされた。藍玉仕法は、紺屋にとって不利な条件となり、その営業に著しく支障が生じるにいたった。
 以上の三例でみてきたように藩は商品生産や流通面で厳しい統制を加え、それによって財政難克服の一助にもしようと策していた。しかし、その利益は一方的に藩や藩と結託した商人の手に落ち、生産者は窮乏化した。当然そのことで反発を招き、専売制はいずれも長続きしなかった。



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